書評
『時の旅人』(岩波書店)
二十世紀前半のロンドンに住む少女ペネロピーが、十六世紀のダービシャーに何度も滑り込んでしまうこの物語の、ためいきがでるようなおもしろさと繊細な美しさをどう言えばいいだろう。ペネロピーの一族には透視力のある者がときどき生れる、と語られる半面、ペネロピーは空想好きだともまた語られ、彼女のタイムスリップがそのどちらによるものなのか曖昧なまま、でも読者は確かにそこに連れて行かれる。鍵となるのはダービシャーにあるペネロピーの大叔母の家で、彼女はそこに滞在することで、するっと十六世紀に滑り込む。それはつまり、都会の娘が田園地帯にでかけてその土地を味わい、さらに過去にでかけて史実を目撃するという二重の旅だ。
十六世紀のその場所にはアントニー・バビントンという荘園主がいて、スコットランド女王メアリーを幽閉生活から逃亡させようと画策している。彼に仕える女中頭がペネロピーの祖先で、現実の大叔母に似ている。舞台も基本的におなじ屋敷とその周辺で、だから読者はペネロピー同様に、一つの場所の二つの貌(かお)を見ることになる。
政治と宗教にからめとられた女王メアリーとバビントンの悲劇(二人の末路をすでに知っていて、どうすることもできない少女ペネロピーの気持ちたるや!)、彼らの周辺の素朴で魅力的な人々、田園風景の美しさ――。私は二十歳のころに読み、この世界から現実に戻りたくないと思ったものだったが、今回読み返して、またそう思った。
ともかく圧倒的な描写力なのだ。風景のみならず、当時の家具や衣服や生活道具、世界の色や音や手触りや匂い(とりわけ匂いはすばらしい。古いものの、新鮮な外気の、さまざまな薬草の、焼きたてのパンや洗いたてのリネンの、一日中働いた男たちの足の、床に敷きつめられたスミレの、匂い匂い匂い)。「焼リンゴの上にクリームを一杯かけて雪ダルマにして食べ」るとか、「蜜シロップをつけて焼き丁字の薬味をつけたハム」とか、おいしそうなものがたくさんでてくるのも愉しく、「上にニクズク、ラズベリー、クリームをのせたジャンケット、まるまる一メートルの長さの大きな凝乳のパスティー、黄金色にふっくらとしていて薬味がちりばめてある」という一文など、ほとんど何のことだかわからないのに、胸がときめく。
幼年童話の名作をいくつも残しているアトリーだけれど、この本にこそ本領が発揮されていると私は思う。
十六世紀のその場所にはアントニー・バビントンという荘園主がいて、スコットランド女王メアリーを幽閉生活から逃亡させようと画策している。彼に仕える女中頭がペネロピーの祖先で、現実の大叔母に似ている。舞台も基本的におなじ屋敷とその周辺で、だから読者はペネロピー同様に、一つの場所の二つの貌(かお)を見ることになる。
政治と宗教にからめとられた女王メアリーとバビントンの悲劇(二人の末路をすでに知っていて、どうすることもできない少女ペネロピーの気持ちたるや!)、彼らの周辺の素朴で魅力的な人々、田園風景の美しさ――。私は二十歳のころに読み、この世界から現実に戻りたくないと思ったものだったが、今回読み返して、またそう思った。
ともかく圧倒的な描写力なのだ。風景のみならず、当時の家具や衣服や生活道具、世界の色や音や手触りや匂い(とりわけ匂いはすばらしい。古いものの、新鮮な外気の、さまざまな薬草の、焼きたてのパンや洗いたてのリネンの、一日中働いた男たちの足の、床に敷きつめられたスミレの、匂い匂い匂い)。「焼リンゴの上にクリームを一杯かけて雪ダルマにして食べ」るとか、「蜜シロップをつけて焼き丁字の薬味をつけたハム」とか、おいしそうなものがたくさんでてくるのも愉しく、「上にニクズク、ラズベリー、クリームをのせたジャンケット、まるまる一メートルの長さの大きな凝乳のパスティー、黄金色にふっくらとしていて薬味がちりばめてある」という一文など、ほとんど何のことだかわからないのに、胸がときめく。
幼年童話の名作をいくつも残しているアトリーだけれど、この本にこそ本領が発揮されていると私は思う。
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