書評
『私のチェーホフ』(講談社)
「退屈な話」の循環
百年前の九〇年代直前にチェーホフが「退屈な話」という小説を書いた(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1990年)。主人公の老教授は、自分のなかにあらゆる思想や感情が統一点を持たずにばらばらに存在していると考えて絶望する。同じ頃ウィーンではホーフマンスタールが「チャンドス卿への手紙」のなかで、あらゆるものが部分に分解し、それを一つの全体に結びつける論理的な脈絡が失われたために、もはや言葉を発することができなくなった危機的状況を、ひとりの作家に告白させた。一世代前まではちがった。トルストイやドストエフスキーのような六〇年代作家は、否定の対象としてであれ、そびえ立つ巨大な神を目前にしていた。それがもはやない、というのが、チェーホフもその一人の八〇年代作家の出発点だった。ばらばらになった部分を統一する絶対者がはじめからない。「もしそれがないとすれば、つまりは何もないことになる」、と「退屈な話」の老教授はいう。一口にいえば世紀末状況。『私のチェーホフ』の著者も同じ出発点に立って、かりにそれを「絶望」と名づける。あらかじめ意味の失われた場所に永遠の刑期で流された流刑囚のそれに等しい状況。そこで自殺もせず、ホーフマンスタールのように審美的解決にも向かわないどんな道があるか。
チェーホフにも道はない。すべてがやはりばらばらのままだ。ときとしてそれが、未来や希望につながりそうに見えた。というより、そう見たがった批評家がすくなくない。しかし著者はジグザグに蛇行しながら、エッセイの組み立てにおいても、「ピラミッド型のヒェルアルヒー的構造」をあくまでも避ける。いきおい、主立った主人公のいない劇に似た構成となり、はては主人公のはずのチェーホフや著者自身までもが名バイプレイヤーのように脇に回り、なぜかといわれても答えようのない「生きていたい」という欲望が真の主人公として、しかしいたって控えめに登場して来る。いや、さっきからずっとそこにいたのに気づかせられる。
正面切った体裁を取らない「私のチェーホフ」でありながら、あるいはこれしかチェーホフ論の書きようはないのではないかと思わせる。思えば、三十数年前「堀辰雄論」において同じく「チャンドス卿への手紙」の失語状況から出発した著者が、ここまできて、固有の時を見出したのであろうか。そしてあらためて気がつくと、いまが一巡りした九〇年代なのだった。
【この書評が収録されている書籍】
朝日新聞 1990年9月30日
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