書評
『うつの医療人類学』(日本評論社)
社会的救済に道開いた日本の医師
うつ病についての本だが、うつの治し方が書いてあるわけではない。そもそも著者は、精神科医でも当事者でもなく、「病や死、苦しみに関する文化を考察する医療人類学」を専門とする研究者だ。彼女は英語圏ではすでに著書を発表し、その独自の視点から精神医療のあり方を俯瞰(ふかん)する論文で精神科医からも注目されていた。本書はながらく待望されていた、北中氏の日本語による最初の著作と言うことになる。現在、うつ病人口は全世界的に増加傾向にある。著者の疑問はここにはじまっている。もしうつ病が、身体疾患などのように、なんらかの本質的な病理をもった独立した疾患ならば、これほど極端な流行は説明できない。そこには確実に、社会や文化の影響が反映されているはずだ。
ここで立てられる最初の仮説が4つある。(1)不況によって社会的ストレスが増えた。(2)うつ病の科学的な啓蒙(けいもう)が進んだ。(3)うつ病概念が変化した。(4)治療技術が変化した。(2)(3)については「社会の心理主義化」の影響も大きいであろう。(4)について「進歩」と書いていないのは、製薬会社による新薬の市場開拓という要因が大きいためだ。
(3)(4)の帰結としてもたらされた「神経化学的自己」とは、抗うつ薬の効果がもたらす「柔軟で軽やか、自己制御的かつ可変的、みずからの可能性を信じてリスクを引き受けることをいとわない」という現代における新しい労働者像を指す。このスーパーマンをあるべき姿と考える時、悲哀や憂うつ、無気力は「うつ状態」として医療化をこうむることになる。
著者は膨大な文献にあたるのみならず、精神医療の現場で地道なフィールドワークを行い、日本のうつ病臨床には世界にも類を見ない独自の「うつ病観」があるのではないかと気づいた。
どういう点か。簡単に言えば、日本の精神科医は、うつ病を単なる心理的葛藤や脳の疾患としてみるのではなく、社会的なストレスの病として位置づける傾向がある。これは世界的に見ても、かなり独特の考え方だ。
こうしたバイオソーシャルとも言うべき特異な視点が、精神医療ではなく、司法や行政を通じて浸透していったと著者は指摘する。確かに過重労働がうつ状態を経て自殺に至るという因果関係が定着するきっかけとなったのは、新人社員が過労により自殺して企業が責任を問われた「電通裁判」だった。
さらにうつ病を、誰もがなり得るストレスの病として認識することには、従来、根強く存在した精神障害者への偏見や排除を緩和する意義があった。この考え方は、「気遣い」を求められる感情労働によるこころの疲労をうまくすくい上げ、医療のみならず社会的救済への道を開いた。
なんでも病気の問題ととらえる「医療化」は批判されがちだが、ここには「社会運動としての医療化」の契機があると著者は言う。こうした日本的なうつ病観が、グローバル・サイエンスに働きかける力を持ちうるのだ、とも。
現場の精神科医の立場からすれば、やや過大評価とも思えて面はゆい記述もあるのだが、それでもこうした指摘には勇気づけられる。とりわけ精神科臨床の面白さを「定式化、標準化された普遍的モデルをいくら志向しようとも、混沌とした現実がつねにそれに抗い、その矛盾から、新たな臨床知が生まれるというそのダイナミズム」と紹介してくれた点には共感を超えた「感謝」すら覚えた。久々に登場した“感動的な学術書”である。