読書日記
鹿島茂|文藝春秋「エロスの図書館」|『フーゾク魂』『アダルト系』『ある日突然、縛られて』
SMもまたセラピーである
風俗という言葉がある。これ自体には売春という意味はない。ところが、一九八五年に直接売春を規制する改正風俗営業法が施行されたことによって、あらゆる形態の「疑似売春」が百花繚乱のごとく出現して、この言葉が広い意味での売春をさすようになった。そして、それにともなって、女たちの気質も変わり、客層も変化した。だが、この新風俗産業が実際にはどのようなシステムで機能し、どんな女が働いていたのか、具体的なディテールを伴った記録はなかなか現れなかった。ところがここに超弩級の本が出現した。平口広美『フーゾク魂』(イースト・プレス 一三〇〇円)。著者の名前を聞いてピンとこない人も、折り返しに掲げられたスキンヘッドに口ひげという顔を見れば、ああこの人かと納得がいくだろう。そう、AV男優・監督として大活躍のあの人物である。この平口氏、実は漫画家が「本籍」でAV男優は「現住所」にすぎない。本書は「本籍」の漫画家として雑誌に十五年連載した「ヤラセなし!コネなし!ハズレあり(泣)!!」(帯)の風俗体験イラストルポを一巻にまとめた偉大なる人類学的記録である。
どこが「偉大」なのかといえば、それはどんなにものすごい女が現れても絶対にチェンジを要求せず、可能なかぎり射精を追求するというその「誠実」な姿勢ゆえである。たとえば柴又のソープのお相手は五十歳ははるかに越えているおばさん。「いきなりしぼんだままのチンポにコンドームをはめられしわしわの手のみでしごかれるのであった」。鶯谷のタイワンおばあさんは「やっぱこの肌はなァ六〇才いってるかも……トホホホ」。この手のおばさんやおばあさんとの遭遇は実に多いが、なぜか「おばあさんとは相性がよいらしく、だいたいすぐ立つ」のである。
また鶯谷のDカップクラブで現れたのは「私の想像のイキをはるかに超えた小錦体型のりっぱなおねえさんであった」「ほとんどトドである」「わき毛には毛玉がからみついていた」「肉が肉をよぶ奥の深い女陰よく臭う風通しが悪いためか」「80分たって私は一度もボッキしなかったこれでボッキしたなら私はケダモノだといい聞かせつつ触ってもらったりしてた」
あるいは大塚の人妻クラブでは逆にガリガリの女が現れる。しかも体全体にボツボツが広がっている。「触るのも舐めるのも危険すぎた。ただひたすら突くのみ」
しかし、そんな突撃精神にあふれ、慈愛の心を持った著者でもただ一度だけ服を脱ぐのがためらわれたことがある。所は巣鴨のSMクラブ。「私は一瞬言葉を失った ひどい……ひどすぎるどうしてこんな……」「正直いって私は触りたくもないしまた触られたくもないと思ったいくら仕事とはいえ!」。どれぐらいのヒドさかはマンガに詳しく描かれているから、【猟奇心】のある方は一読を。
マンガという特性をフルにいかして女やポン引きや現場の細部を徹底的に描きこみ、最後にかかった費用がきっちりと書いてあるので、「昭和の終りから平成にかけて、こういう場所と女たちがいた」というまたとない貴重な証言となっている。俗も突き抜ければ聖になるということを示した大傑作である。
いっぽう、同じ風俗ルポでも、体験よりは関係者の証言から事象の核心に迫る姿勢を見せるのが、ここのところ『別冊宝島』で快調な記事を連発している永江朗の『アダルト系』(アスペクト 一五〇〇円)。狭い意味での「風俗」に限らず、ブラックジャーナリズム、盗聴、結婚調査、死体洗いなどの裏ビジネス、あるいは刺青、女装、ブルセラといったマニア関係、さらには風俗情報誌やエロ漫画、エロ本、フケ専のモデル募集などのエロ・メディア関係と、幅広い「風俗」を扱っているが、どれも、「オトナじゃないとわからない世界にハマる、いまいちオトナになりきれない人々」への人間的興味という形の問題設定が明確なので、現代というわけのわからない時代を見事に切り取ったノンフィクションになっている。中でも圧巻は、エロ本出版の起源をたどった「アダルト系出版社のルーツを探せ!」である。この記事は「初期のアダルト系出版社のパトロンといえば、ゾッキ本屋か紙屋だった。ゾッキ屋は流通ルートを持っていたし、物のない当時は、紙の供給ルートをまず押さえないと出版はできなかった」というベテラン編集者の証言を引き出しただけでも、出版文化史に残る。正直、これは「ヤラレタ!」という嫉妬の感情を私に抱かせた。
もう一つこの本で白眉なのが、真性M女と調教師志摩紫光氏にインタビューを試みた「針刺し!尿浣腸!」。これを読むと、SMというのはセックスとは関係のない精神的なセラピーであることがよくわかる。優れたS男は、精神を病んだM女に対して、どんな精神分析医も真似できない心の治療を行う。「志摩氏はマラソンの例で説明する。走っていると苦しくなる。苦しくなって、そこでやめるとおしまい。苦しくても頑張ってると、すっと楽になる瞬間がある」。つまり苛酷な責めに耐えられたと感じた瞬間にM女は心を全面的に開き、「自分をよく理解してくれる絶対的存在の腕の中で、庇護されつつ、何も考えなくていいような状態に」入るのである。
最後にSMは本質的にメンタルな治療だということを認識させてくれる風俗ルポをもう一つ。大谷佳奈子『ある日突然、縛られて』(大和書房 一三五九円)。タイトル通りある日偶然出会った男に縛られて「あれっ、これって結構気持ちいいじゃん」と感じてしまった若いライターの著者が様々なSM関係者にインタビューをおこなった報告書である。SM嬢が概してノーマルなのに対し、プライベートなセックスにSMを導入している人たちは「SMはこの人とだけ」と精神性を強調する。特におもしろく読んだのは、SM雑誌に「女性の為SもMも」と顔写真入りの広告を出している花公路夏男氏へのインタビュー。妻を亡くして絶望していた花公路氏は「最後にSMを思いっきりやって死のう」と決意し(氏はMだがSもこなす)、同志を求める広告を出して「SMを純粋に愛好し、その素晴らしい快楽を体験研究(性行為は一切伴わない)することを目的とする」同好会を組織する。「(SMっていうのは)セックス抜きでやるのが本道だと思うんですよ」という花公路夏男氏の言葉には重みがある。
ようやく世紀末に至って、風俗ルポが市民権を得る時代になったようである。
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