書評
『短くて恐ろしいフィルの時代』(角川書店(角川グループパブリッシング))
人間社会の本質をさらした独裁の寓話
国民が一度に一人しか入れない「内ホーナー国」とそれを取り囲む広大な「外ホーナー国」の対立と抗争の寓話(ぐうわ)だ。「内ホーナー国」に入れない六人の国民は、自国に入るために「外ホーナー国」にはみ出した一時滞在ゾーンで、文字通り肩身の狭い思いで立ち暮らしている。この設定自体、すでに政治的な寓意と教訓に満ちている。最初の一行目から読者は具体的に、地球上の国家間の確執や、過去現在未来の政治勢力を想像しながら読むことになる、という意味では、正統なる風刺寓話と言えるだろう。
「外ホーナー国」のフィルは愛国心溢(あふ)れる戦略家だ。おまけに「内ホーナー国」の女性に恋慕して振られたコンプレックスを持つ。独裁者としてのエネルギーはこうして蓄えられていく。定石どおり。
彼は「内ホーナー国」にあれこれといちゃもんをつけて税を搾取し、身ぐるみ剥(は)いだ上借金を課す。一方「内ホーナー国」の人間は狼狽(うろた)えながらその場しのぎで従う。横暴な権力の前に内輪揉(も)めしか出来ず、思考停止し、戦略も描けない小さな国。国民の心も矮小(わいしょう)で弱小だ。
フィルの野心はさらにエスカレートしていく。自分の口ひげと体重ばかりを気にする無能で善良な自国の大統領を排斥し、宮殿を乗っ取る。フィルの手足となるのは二人の豪腕で頭の悪い男たち、つまり軍部掌握というわけだ。
狡猾(こうかつ)なるフィルは「内ホーナー国」への猜疑(さいぎ)心と警戒心を煽(あお)り、弾圧のあげく「内ホーナー国」は潰される。群衆もマスコミもこのプロセスを抑止できず、声無き声は抹殺される。とりわけマスコミの無批判な迎合がフィルをのさばらせる。
しかし、「外ホーナー国」には、さらに「外」があった。フィルの所業を見ていた「大ケラー国」が、独裁者フィルの排除に動き出し、本のタイトル通り、「短くて恐ろしいフィルの時代」は終わりを告げる。いわば、愛国精神とコムプレックスを抱える独裁者の、誕生から終焉(しゅうえん)までが描かれているというわけだ。
図式的に、大量虐殺(ジェノサイド)が起きる典型的な成り行きや、独裁者の顛末(てんまつ)を寓話化した面白さだけでは、この作品の紹介として不十分だろう。
まず、フィルをはじめ登場人物はすべて生身の人間ではなく、ベアリングやフィラメントやバックルやツナ缶で出来ているのだ。作者は最初に「人間以外」の生きものを使ってこの寓話を創る決心をしたらしい。それゆえ、「死」は「パーツの分解」であり、「死」を確定させるためには、分解したパーツを二度と組み立てることが出来ないように、遠くの場所に保存しなくてはならない。生命体の死より、ずっと扱いが面倒くさい。
寓話は、笑える部分や楽しめる要素が必要になる。
フィルは大声で演説をするとき、脳が転げ落ちてしまう。急いで取り戻し、体内に収めなくてはならないが、ときに脳は行方不明になる。軍部を表す頭の悪い男たちヴァンスとジミーは、生まれてこのかた親からも雇用者からも「泥」を塗られてきたが、フィルに泥を「洗い」流してもらい制服を着せられ、以後フィルの従順な「親友隊」となる。しかし大ケラー国に攻められると昔の「泥」が懐かしくなり、フィルを見捨てて遁走(とんそう)する。
同じ顛末を歴史上に幾つも発見できるし、あらゆる組織やコミュニティにも当てはまる。背後には、膨大な人間社会の本質が拡(ひろ)がっていて、「オズの魔法使い」や「荘子」を想像させられた。寓話を読むとは、眠っている記憶や体験や知識を呼び出すことなのだ。(岸本佐知子訳)
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