書評
『ラダック 懐かしい未来』(山と溪谷社)
金がなくても心豊かだった過去に学ぶ
ラダックといえば秘境で名高い。ヒマラヤ山脈西端の高地砂漠地帯に位置し、チベット、パキスタン、中国、アフガニスタンと隣接している。文化的にはチベット大乗仏教が主流、政治的にはインド・パキスタン紛争以来、インドに属する。高原の麦畑からとれる麦、家畜の乳やチーズを食糧とし、運搬手段はロバとヤク、馬、牛とヤクの雑種ゾー。その蓄糞(ちくふん)を燃料に長い冬を過ごす、完全に循環型の自給自足経済を維持してきた。一九七五年からここでスウェーデンの女性言語学者が調査を始めた。当初は文明からの遅れがしきりに目につく。やがて工業化社会がうしなった諸価値がここに凍結されていることに気がつきはじめた。競争社会にはない相互扶助がある。老人が尊敬され、子供たちはいつもニコニコ笑顔をうかべている。宗教があるにはあっても、かなりユルい。のんびりしたテンポの日常。生活に過不足がないから侵略戦争はしない。現金がなくてもおだやかで豊かな生活がある。
ヒマラヤ奥地の秘境といってすぐに思い浮かぶのは、J・ヒルトンの小説『失われた地平線』のシャングリ・ラだろう。ラダックはしかしそうしたオリエンタリズム幻想に都合よく整備された観光地ではない。いや、なかった。だがこの十数年、ここも国境の軍事緊張に巻きこまれ、ご多分にもれずもろに文明の侵食をうけた。発電用ダムを造り、大家族は崩壊し、若者はアメリカ映画にかぶれた。蓄糞の代わりに低地の薪(まき)を燃料にとインド政府が要求するに及んで、ついに循環型社会は消失した。秘境はいまや東京となんの変わりもない。
著者と若い現地人は「ラダック・プロジェクト」を立案した。うしなわれた過去が未来に再来する夢の実現計画。百年余のタイムラグはあるものの当方にとっても身に覚えがある。どうしようか。ここは大げさな集団行動よりはラクチンで長続きする個人的抵抗の方が効き目がありそう。まずファースト・フードにおさらばして、ご飯とみそ汁の朝飯をおいしくいただく。すると「懐かしい未来」がすこしは見えてきそうだ。
【増補改訂:文庫版】
朝日新聞 2003年8月3日
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