前書き
『歴史としての日教組【上巻】―結成と模索―』(名古屋大学出版会)
左からも右からも歪んだイメージを押しつけられてきた「日教組」。インターネット上では今も、現実とかけ離れた言説が拡散されています。この組織について、私たちはどれくらい本当のことを知っているでしょうか。
今月初旬、日教組の歴史を学術的に検証する『歴史としての日教組』(上下2巻)がついに出版されました。膨大な非公開史料、重要人物へのインタビュー……これらを利用し、どのように組織の実情に迫っていくのか。その注目の内容を、「はじめに」より一部抜粋してご紹介します。
一方には、対抗的な教育運動に関心を寄せる教育研究者や活動家が、過大な期待を日教組に寄せ、その結果歪んだ像が作られてきた面がある。日教組の活動の中に体制変革の担い手としての潜勢力や兆候を読み取ろうとし、日教組の実像、特に決議機関(大会や中央委員会)による運動方針の決定などとは無関係に、「日教組の運動のあるべき方向」などが語られてきたりしたわけである。たとえば教育学者は、しばしば原理主義的な議論を、そのまま日教組の運動と結びつけて、「これが必要だ」という論陣を張ってきたから、それが日教組についてのイメージを歪めてきた面があっただろう。
もう一方には、右翼や保守的な勢力による一面的な(あるいは捏造的な)日教組像がある。この保守の側からの日教組批判言説には、おおむね共通して、問題のある二種類のレトリックが採用されている。一つには、日教組の運動方針やその他の公式文書を恣意的に深読みし、文書の中に書かれていないものを読み取って説明してしまうという歪曲である。その典型が、「教師の倫理綱領」(1951年草案作成、52年大会決定)をめぐる右翼の側からの攻撃である。「倫理綱領」の文章の中に書かれていない意味を読み込み、「社会革命の闘士を育成する社会主義政党の私立学校の教育方針」だ、というふうな批判がくり返されてきた。それは妄想に満ちた一方的で過剰な読み込みである。「倫理綱領」の文章の中には「教師は労働者である」という文言があるが、それは労働基本権の保障を求める立場からは当然の文言であって、当時の「労働者」という語がそのまま労働者階級による暴力革命を含意していたわけではなかった。
もう一つは、日教組の中央と地方の単組(単位組合)、組合と個々の組合員とを区別せず、単組での出来事や組合員の行う活動をすべて日教組中央の指令によるものとみなし、そこに「破壊分子」の策動を読み込んでしまうという歪曲である。たとえば、『中山成彬はなぜ日教組と戦うのか』という本を読んでみると、日教組の組織決定や指示がどこにもないのに、「組合員が○○した」という事例がすべて「日教組のせい」にされている。著者の伊藤玲子が挙げている事例のいくつかはおそらく、確かに困った教員だ、と思わせる事例である。だが、それは日教組の指示や指導によるものではない。何でも「日教組のせい」にするのは、日教組にとって気の毒な話である。
そもそも、日教組は単組の連合体組織なので、日教組中央の統制力は決して強くない。中央の決議機関で決めた方針は中央の執行部の動きを拘束するのだが、その中央で決められた方針と各都道府県の加盟組合(単組)の方針とは必ずしも同じではないし、単組の中の支部や分会のレベルに至ると、考え方はまちまちである。組合員を思想・信条によって差別ないし排除することは組合としてはやってはいけないことなので、個々の組合員のレベルでは、多様な考え方の組合員がいるのは当然である。
日教組が大会や中央委員会で決定したこと、あるいは、指令・指示として各単組に発出したものに基づいてなされたことは、日教組が責任を負うべきである。しかし、どこかの単組や分会が独自に決めた方針で行った活動や、誰か一人の組合員が自分の思想・信条に基づいて行った行為をとりあげて、「日教組が……」というふうに名指しして攻撃するのは、明らかにまちがっている。
戦後の教育の歴史の中で、日教組は確かに大きな存在感を示してきた組織であった。そうであったがゆえに、期待も攻撃も頻繁になされてきた。結果的に、日教組は、左と右から「虚像」を押しつけられてきたのではないだろうか。あらためて実情を実証的にとらえ直してみる必要があるだろう。
日教組の内部の議論に分け入って、多様性や多元性を実証的に研究することは容易ではないし、実際それを研究としてきちんと行った者はほとんどいない。日教組自身が編んだ年史では内部の対立が隠蔽されているし、微妙な過程は捨象されている。日教組批判の側の議論も一面的に歪曲した日教組を描いてしまっている。
そこでわれわれは、教育社会学、教育史、教育行政学の研究者が集まり、経済史、政治史の分野の研究者にも参加してもらって、「教職員組合運動史研究会」を組織し、研究を始めた。かなり長い時間をかけて日教組執行部役員と交渉をし、2012年3月に研究代表者である私(広田)と日教組執行部との間で、「「教職員組合の歴史に関する基礎的研究」に関する協定書」を取り交わした。非公開史料の閲覧や取り扱い、キイ・パーソンへの聞き取りなど、かなりセンシティブな情報を含んだ研究になると予想されたからである。その後、研究会は本格的に活動を始め、『日教組三十年史』などを読んだ後、時期と領域とによって区分した五つの作業グループに分かれて、史料の整理・分析と、日教組OBなどへのヒアリング調査を始めた。
研究がまだ途上にあるため試行的でしかないが、1947年の結成から、「歴史的和解」によって文部省との関係を改善した1995年までの日教組の歴史は、いくつかに時期区分することができる。
第I期(結成~1960年代初頭) 政治の時代
1947~50年 生活危機による団結と激動の時代
1950~62年 保守―革新の対立の中での政治的対決
第II期(1960年代~70年代) 経済と権利要求の時代
1962~74年 高度成長の中での運動の高揚
1974~80年 運動の行き詰まり
第III期(1980年代~90年代半ば) 混迷と路線選択の時代
1980~89年 路線選択をめぐる模索
1989~95年 穏健な対話路線への軌道修正
上下2巻で刊行される本書は、この日教組の歴史の中で、スタートの時期と、運動のあり方の見直しの時期とを扱う。この上巻(第I部)は、日教組の結成直後から1950年前後までの数年間を、労働運動との関わりの視点から考察するグループの成果がベースになっている。日教組という組織の性格が確立し、50年代に社会党―総評ブロックの一翼を担うことになる運動の方向が明確になっていった時期を考察することになる。下巻(第II部)は、1980~90年代の日教組を、同じく労働運動との関わりの視点から考察するグループの成果である。それは、高度成長期の間に高揚した運動が、情勢の変化の中で行き詰まり、運動の方向や手段の見直しや組織のあり方の問い直しがなされていった時期にあたる。現在に至る日教組の歴史を、成立―高揚―変容―現在というプロセスとしてイメージするならば、この上巻が「成立」を、下巻が「変容」を扱うことになる。本書は、ポスト冷戦期の目から日教組を振り返ってみる、本格的な学術的作業の出発点になるはずである。
[書き手] 広田照幸(日本大学文理学部教授、教育学・教育社会学)
今月初旬、日教組の歴史を学術的に検証する『歴史としての日教組』(上下2巻)がついに出版されました。膨大な非公開史料、重要人物へのインタビュー……これらを利用し、どのように組織の実情に迫っていくのか。その注目の内容を、「はじめに」より一部抜粋してご紹介します。
日教組の歴史を研究するということ
日本教職員組合(以下、日教組)ぐらい、実像とかけ離れたイメージや言説がおびただしく作られ、巷間に流布しているような組織は珍しいだろう。一方には、対抗的な教育運動に関心を寄せる教育研究者や活動家が、過大な期待を日教組に寄せ、その結果歪んだ像が作られてきた面がある。日教組の活動の中に体制変革の担い手としての潜勢力や兆候を読み取ろうとし、日教組の実像、特に決議機関(大会や中央委員会)による運動方針の決定などとは無関係に、「日教組の運動のあるべき方向」などが語られてきたりしたわけである。たとえば教育学者は、しばしば原理主義的な議論を、そのまま日教組の運動と結びつけて、「これが必要だ」という論陣を張ってきたから、それが日教組についてのイメージを歪めてきた面があっただろう。
もう一方には、右翼や保守的な勢力による一面的な(あるいは捏造的な)日教組像がある。この保守の側からの日教組批判言説には、おおむね共通して、問題のある二種類のレトリックが採用されている。一つには、日教組の運動方針やその他の公式文書を恣意的に深読みし、文書の中に書かれていないものを読み取って説明してしまうという歪曲である。その典型が、「教師の倫理綱領」(1951年草案作成、52年大会決定)をめぐる右翼の側からの攻撃である。「倫理綱領」の文章の中に書かれていない意味を読み込み、「社会革命の闘士を育成する社会主義政党の私立学校の教育方針」だ、というふうな批判がくり返されてきた。それは妄想に満ちた一方的で過剰な読み込みである。「倫理綱領」の文章の中には「教師は労働者である」という文言があるが、それは労働基本権の保障を求める立場からは当然の文言であって、当時の「労働者」という語がそのまま労働者階級による暴力革命を含意していたわけではなかった。
もう一つは、日教組の中央と地方の単組(単位組合)、組合と個々の組合員とを区別せず、単組での出来事や組合員の行う活動をすべて日教組中央の指令によるものとみなし、そこに「破壊分子」の策動を読み込んでしまうという歪曲である。たとえば、『中山成彬はなぜ日教組と戦うのか』という本を読んでみると、日教組の組織決定や指示がどこにもないのに、「組合員が○○した」という事例がすべて「日教組のせい」にされている。著者の伊藤玲子が挙げている事例のいくつかはおそらく、確かに困った教員だ、と思わせる事例である。だが、それは日教組の指示や指導によるものではない。何でも「日教組のせい」にするのは、日教組にとって気の毒な話である。
そもそも、日教組は単組の連合体組織なので、日教組中央の統制力は決して強くない。中央の決議機関で決めた方針は中央の執行部の動きを拘束するのだが、その中央で決められた方針と各都道府県の加盟組合(単組)の方針とは必ずしも同じではないし、単組の中の支部や分会のレベルに至ると、考え方はまちまちである。組合員を思想・信条によって差別ないし排除することは組合としてはやってはいけないことなので、個々の組合員のレベルでは、多様な考え方の組合員がいるのは当然である。
日教組が大会や中央委員会で決定したこと、あるいは、指令・指示として各単組に発出したものに基づいてなされたことは、日教組が責任を負うべきである。しかし、どこかの単組や分会が独自に決めた方針で行った活動や、誰か一人の組合員が自分の思想・信条に基づいて行った行為をとりあげて、「日教組が……」というふうに名指しして攻撃するのは、明らかにまちがっている。
戦後の教育の歴史の中で、日教組は確かに大きな存在感を示してきた組織であった。そうであったがゆえに、期待も攻撃も頻繁になされてきた。結果的に、日教組は、左と右から「虚像」を押しつけられてきたのではないだろうか。あらためて実情を実証的にとらえ直してみる必要があるだろう。
日教組の内部の議論に分け入って、多様性や多元性を実証的に研究することは容易ではないし、実際それを研究としてきちんと行った者はほとんどいない。日教組自身が編んだ年史では内部の対立が隠蔽されているし、微妙な過程は捨象されている。日教組批判の側の議論も一面的に歪曲した日教組を描いてしまっている。
そこでわれわれは、教育社会学、教育史、教育行政学の研究者が集まり、経済史、政治史の分野の研究者にも参加してもらって、「教職員組合運動史研究会」を組織し、研究を始めた。かなり長い時間をかけて日教組執行部役員と交渉をし、2012年3月に研究代表者である私(広田)と日教組執行部との間で、「「教職員組合の歴史に関する基礎的研究」に関する協定書」を取り交わした。非公開史料の閲覧や取り扱い、キイ・パーソンへの聞き取りなど、かなりセンシティブな情報を含んだ研究になると予想されたからである。その後、研究会は本格的に活動を始め、『日教組三十年史』などを読んだ後、時期と領域とによって区分した五つの作業グループに分かれて、史料の整理・分析と、日教組OBなどへのヒアリング調査を始めた。
日教組の歴史と本書の上下巻
研究がまだ途上にあるため試行的でしかないが、1947年の結成から、「歴史的和解」によって文部省との関係を改善した1995年までの日教組の歴史は、いくつかに時期区分することができる。
第I期(結成~1960年代初頭) 政治の時代
1947~50年 生活危機による団結と激動の時代
1950~62年 保守―革新の対立の中での政治的対決
第II期(1960年代~70年代) 経済と権利要求の時代
1962~74年 高度成長の中での運動の高揚
1974~80年 運動の行き詰まり
第III期(1980年代~90年代半ば) 混迷と路線選択の時代
1980~89年 路線選択をめぐる模索
1989~95年 穏健な対話路線への軌道修正
上下2巻で刊行される本書は、この日教組の歴史の中で、スタートの時期と、運動のあり方の見直しの時期とを扱う。この上巻(第I部)は、日教組の結成直後から1950年前後までの数年間を、労働運動との関わりの視点から考察するグループの成果がベースになっている。日教組という組織の性格が確立し、50年代に社会党―総評ブロックの一翼を担うことになる運動の方向が明確になっていった時期を考察することになる。下巻(第II部)は、1980~90年代の日教組を、同じく労働運動との関わりの視点から考察するグループの成果である。それは、高度成長期の間に高揚した運動が、情勢の変化の中で行き詰まり、運動の方向や手段の見直しや組織のあり方の問い直しがなされていった時期にあたる。現在に至る日教組の歴史を、成立―高揚―変容―現在というプロセスとしてイメージするならば、この上巻が「成立」を、下巻が「変容」を扱うことになる。本書は、ポスト冷戦期の目から日教組を振り返ってみる、本格的な学術的作業の出発点になるはずである。
[書き手] 広田照幸(日本大学文理学部教授、教育学・教育社会学)