書評
『マン・レイ自伝 セルフ・ポートレイト』(文遊社)
前衛芸術家の「交差点」に位置して
一つの世紀には人物交差点のような万能の才人がいて、その才人に注目すれば、あらゆる文学者・芸術家、社交界人種などが星座状に見えてくる。二十世紀なら写真家のマン・レイだ。マン・レイを押さえれば二十世紀そのものの肖像が手に入るのである。少年時代をブルックリンで過ごしたマン・レイは彫刻銅版画の見習いを始めとしてさまざまなアルティザン的職業を遍歴しながらニューヨークの前衛芸術家グループに接近していく。こうした職人的キャリアが彼独特の工学的芸術の下地ともなる。
ニューヨークにはパリ帰りの前衛芸術家が多くいて、郊外にコロニーを形作っていたが、マン・レイもこれに加わり、最初、画家として注目される。ところが、個展を開く段になって、カタログ作りで職業写真家に不満を抱く。
色彩を白黒のモノクロームに転換するには、技術的な能力ばかりでなく、複製される作品についての理解をも要求される。おもうに、その仕事には画家自身以上にうってつけの人はいない。わたしは他の画家たちとはちがって写真を軽蔑(けいべつ)したことなどなかった
こうして自作品の撮影を介して写真術をマスターしたマン・レイに進むべきモダン・アートの方向を指し示したのはマルセル・デュシャンだった。デュシャンのガラス作品の撮影を願い出たマン・レイが焦点を合わせようと作品を上から見下ろすと、それはなにやら奇妙な風景のように見えた。「作品の上には埃(ほこり)がたまっており、また、仕上がった部分を綺麗に磨くのに使われた布切れや綿の詰めものがあって、よけい神秘的に見えた。これは、まったくデュシャンの世界そのものだ、と思った」。デュシャンはこの写真を「埃の培養」と名づけることにする。
海を渡って憧(あこが)れのパリの土を踏んだのは一九二一年七月のこと。デュシャンを介してダダの仲間に加わったマン・レイはやがて、シュルレアリストたちの専属カメラマンになっていくが、不思議なことに、離合集散を繰り返し敵対したシュルレアリストの中にあってマン・レイは局外永世中立を貫き、ピカビアやコクトーとも友人になったばかりか、彼らを通じてポール・ポワレや社交界に近づき、モード写真家、社交界写真家としても頭角を現す。並行して、パリにやってきたヘミングウェイ、ジョイス、パウンドらを撮影する。
そんなある日、乾板からプリントを作ろうとしていたとき偶然、新しい写真技法レイヨグラフを発明する。露光させていない印画紙が現像液の中に一枚混じったのがきっかけだった。「液皿のなかの小さなガラスの漏斗や目盛つき容器や温度計を、濡れた印画紙のうえに機械的に置いた。そして電気を点けた。すると眼前でひとつの像が形成されはじめた」
後に妻となるモンパルナスのキキとの出会いも淡々とした記述のうちに感動を呼ぶ。マリー・ヴァシリエフとカフェにすわっていると、ボーイに侮辱されている娘がいた。キキだった。キキは絵のモデルならいいが写真を撮られるのはいやだと言った。マン・レイは説得した。「ぼくは絵を描くように写真を撮るんだ。画家が好きなように主題を変形するように変形し、画家がやるのと同じように自由に理想化したり歪形(デフォルメ)するのだ、とわたしも粘った」。戦後、モンパルナスに戻ったマン・レイはカフェに入った。キキの声が聞こえた。「わたしは歩み寄って、彼女のまえに立った。彼女はきゃっと叫んでわたしの腕のなかに飛び込んできた」。キキはその直後に亡くなる。
「二十世紀セレブ人名辞典」と呼ぶにふさわしい、驚異的な記憶力に支えられた回想録である。(千葉成夫・訳)
ALL REVIEWSをフォローする