書評
『ウィトゲンシュタイン・文法・神』(法蔵館)
英国の神学者A・キートリーが、一九七六年に出版した処女作の翻訳である。ヴィトゲンシュタインの思想、特に言語ゲームの考え方が、現代の神学にどのような波紋を投げかけたか、最近の研究動向を踏まえて縦横に論じる本書は、信仰をもつ人々だけでなく、宗教と言語・哲学の関わりを考えるすべての人々に、きっと有益であるに違いない。
ヴィトゲンシュタインが前期の『論理哲学論考』で、「語りえぬものについては沈黙せねばならぬ」とのべたことは有名だ。「語りうるもの」とは、この世界のなかで経験可能な出来事のこと。だから、神の存在やこの世界の終末など、キリスト教信仰の主要部分は「語りえぬもの」になってしまう。しかし、彼は、だからと言って宗教と無縁であろうとしたわけではない。むしろ終生、宗教者とも言うべき態度を保持していたというのが、著者キートリーと、とりわけ訳者星川啓慈氏の主張だ。
ところで、ヴィトゲンシュタインはのちに、前期の「写像理論」の立場を捨て、言語ゲームを提唱するようになる。言語の意味は、世界(出来事の集まり)と言語の対応(像)にあるのではない。むしろ言語の用法(文法)にある、とする立場である。すると、宗教は、「語りえぬもの」を語るという、ある種類の言語の用法であるところに、その根拠をもつと言えるのではないか。
このような示唆を受けて、欧米の神学者、宗教哲学者たちが、言語ゲームの考え方にもとづく多様な研究を進めているらしい。それがどのようなものか、私は知らなかったが、本書を通じてその一端に触れることができたのは有益だった(なお、この分野に関しては、訳者星川氏の新著『ヴィトゲンシュタインと宗教哲学』〔ヨルダン社〕と近著『宗教者ヴィトゲンシュタイン』〔法蔵館〕が、現在わが国で唯一のものと思われる)。
こうした研究動向の、核になるのが、「ヴィトゲンシュタイニアン・フィディズム(信仰主義)」である。星川氏の整理によるとこれは、《(a)……言語ゲームおよび生活形式は、それ独自の論理構造や体系を有している……。(b)それゆえ……外部からの批判を免れている。(c)キリスト教は独自の閉じた体系をなす言語ゲームであり、非キリスト教的言語ゲームからの批判や攻撃は妥当しない》(「訳者まえがき」)と主張するものだという。「宗教を信じるものに宗教の真理は自明であり、宗教を信じないものに宗教を語る資格はない」という、よくあるタイプの平行線の焼き直しと見てよいのかもしれない。
著者キートリーは若い日に、ティリッヒの著作に触れ、学問の道を志したという。そして、ヴィトゲンシュタインの影響を受けた宗教哲学者たち、ことにD・Z・フィリップスの仕事に触発されながら、宗教と信仰の意味を現代哲学の思考回路に即して考えていった。その思索の成果が本書である。
本書で紹介されているわが国であまりなじみのない論者たちの、もつれあった論争をたどるのは、必ずしも容易ではない。構成もすっきりしない。訳文も、日本語としていまひとつこなれていないので、すんなり頭に入らない。おそらくこれは、博士論文をベースにしたという生硬な原文のせいだろう。著者キートリーがどれだけの力量をもって、この分野で考えるべき本質的な問題に切りこんでいるのか、見極めがつきにくい。
そこで、私の理解をのべると、まずキリスト教神学は、神の「存在論」を根本問題とせざるをえない。神の「存在」は経験的事実でないから、「信じる」という態度を人間の側に要求する。ところが、言語ゲームの理解に立つと、神の「存在」は「信じる」というゲームの効果であることになってしまう。ヴィトゲンシュタインが《信仰に忠実な人々を恐れさせる哲学の「悪霊」と考えられ》(三頁)たりするのも、当然だ。
人間の活動をのこらず言語ゲームで記述できるものなら、宗教も例外でない。そしてこの記述のなかで、伝統的なキリスト教の信念体系は解体されてしまう。論者がめいめい試みているのは、自分や他の信者たちの「信じる」という遂行を、言語ゲームの理解といかに両立させる(させない)か、という多様な悪戦苦闘なのだ。
これらのなかには、宗教の総体を、人々の信念に還元してしまう試みも含まれる。これでは神は「死んで」しまう。それに対してキートリーが支持するのは、《優れた哲学的分析は、信念の文法を明瞭にすることによって、真の信念をそのあるがままにしておく》(六七頁)と考える、フィリップスの立場だ。
なるほど確かに、《神の絶対的な存在と信仰の価値》(六七頁)を奉ずる言語ゲームというものを考えれば、それは、第三者の横槍によって破壊されないかもしれない。そのかわり、メンバーが補充できないで、ゲームが立ち枯れていくことだって充分考えられる。「信念」の砦に立てこもり、同時代の知との緊張関係を遮断せずにいられないようでは、先細りが避けられないのではないか。わが国では、宗教的信念が脅かされているという危機感が人々をとらえたりしないので、その切実な感触がわかないが、英米の宗教思想も次第に衰弱と混迷の度合いを深めているのではないかというのが、この本を読んでの私の印象であった。
【この書評が収録されている書籍】
ヴィトゲンシュタインが前期の『論理哲学論考』で、「語りえぬものについては沈黙せねばならぬ」とのべたことは有名だ。「語りうるもの」とは、この世界のなかで経験可能な出来事のこと。だから、神の存在やこの世界の終末など、キリスト教信仰の主要部分は「語りえぬもの」になってしまう。しかし、彼は、だからと言って宗教と無縁であろうとしたわけではない。むしろ終生、宗教者とも言うべき態度を保持していたというのが、著者キートリーと、とりわけ訳者星川啓慈氏の主張だ。
ところで、ヴィトゲンシュタインはのちに、前期の「写像理論」の立場を捨て、言語ゲームを提唱するようになる。言語の意味は、世界(出来事の集まり)と言語の対応(像)にあるのではない。むしろ言語の用法(文法)にある、とする立場である。すると、宗教は、「語りえぬもの」を語るという、ある種類の言語の用法であるところに、その根拠をもつと言えるのではないか。
このような示唆を受けて、欧米の神学者、宗教哲学者たちが、言語ゲームの考え方にもとづく多様な研究を進めているらしい。それがどのようなものか、私は知らなかったが、本書を通じてその一端に触れることができたのは有益だった(なお、この分野に関しては、訳者星川氏の新著『ヴィトゲンシュタインと宗教哲学』〔ヨルダン社〕と近著『宗教者ヴィトゲンシュタイン』〔法蔵館〕が、現在わが国で唯一のものと思われる)。
こうした研究動向の、核になるのが、「ヴィトゲンシュタイニアン・フィディズム(信仰主義)」である。星川氏の整理によるとこれは、《(a)……言語ゲームおよび生活形式は、それ独自の論理構造や体系を有している……。(b)それゆえ……外部からの批判を免れている。(c)キリスト教は独自の閉じた体系をなす言語ゲームであり、非キリスト教的言語ゲームからの批判や攻撃は妥当しない》(「訳者まえがき」)と主張するものだという。「宗教を信じるものに宗教の真理は自明であり、宗教を信じないものに宗教を語る資格はない」という、よくあるタイプの平行線の焼き直しと見てよいのかもしれない。
著者キートリーは若い日に、ティリッヒの著作に触れ、学問の道を志したという。そして、ヴィトゲンシュタインの影響を受けた宗教哲学者たち、ことにD・Z・フィリップスの仕事に触発されながら、宗教と信仰の意味を現代哲学の思考回路に即して考えていった。その思索の成果が本書である。
本書で紹介されているわが国であまりなじみのない論者たちの、もつれあった論争をたどるのは、必ずしも容易ではない。構成もすっきりしない。訳文も、日本語としていまひとつこなれていないので、すんなり頭に入らない。おそらくこれは、博士論文をベースにしたという生硬な原文のせいだろう。著者キートリーがどれだけの力量をもって、この分野で考えるべき本質的な問題に切りこんでいるのか、見極めがつきにくい。
そこで、私の理解をのべると、まずキリスト教神学は、神の「存在論」を根本問題とせざるをえない。神の「存在」は経験的事実でないから、「信じる」という態度を人間の側に要求する。ところが、言語ゲームの理解に立つと、神の「存在」は「信じる」というゲームの効果であることになってしまう。ヴィトゲンシュタインが《信仰に忠実な人々を恐れさせる哲学の「悪霊」と考えられ》(三頁)たりするのも、当然だ。
人間の活動をのこらず言語ゲームで記述できるものなら、宗教も例外でない。そしてこの記述のなかで、伝統的なキリスト教の信念体系は解体されてしまう。論者がめいめい試みているのは、自分や他の信者たちの「信じる」という遂行を、言語ゲームの理解といかに両立させる(させない)か、という多様な悪戦苦闘なのだ。
これらのなかには、宗教の総体を、人々の信念に還元してしまう試みも含まれる。これでは神は「死んで」しまう。それに対してキートリーが支持するのは、《優れた哲学的分析は、信念の文法を明瞭にすることによって、真の信念をそのあるがままにしておく》(六七頁)と考える、フィリップスの立場だ。
なるほど確かに、《神の絶対的な存在と信仰の価値》(六七頁)を奉ずる言語ゲームというものを考えれば、それは、第三者の横槍によって破壊されないかもしれない。そのかわり、メンバーが補充できないで、ゲームが立ち枯れていくことだって充分考えられる。「信念」の砦に立てこもり、同時代の知との緊張関係を遮断せずにいられないようでは、先細りが避けられないのではないか。わが国では、宗教的信念が脅かされているという危機感が人々をとらえたりしないので、その切実な感触がわかないが、英米の宗教思想も次第に衰弱と混迷の度合いを深めているのではないかというのが、この本を読んでの私の印象であった。
【この書評が収録されている書籍】
初出メディア

アーガマ(終刊) 1989年11月
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