書評
『穴』(新潮社)
獣を追いかけて落ちた先には
文学を読むとは、作家が想像力で掘った〈穴〉にはまることなのだろう。『不思議の国のアリス』が落ちた深い穴、カフカの複雑に入り組んだ〈巣穴〉。そしていま、小山田浩子が掘った、いわば等身大の穴に、我々は主人公の「私」とともに落ちたのだ。地方都市に暮らす「私」は、夫の転勤に伴い仕事を辞め、田舎にある彼の実家の所有する借家に引っ越す。隣の母屋には夫の両親と祖父が住んでいる。姑(しゅうとめ)は親切だし、やや惚(ぼ)けた感じの義祖父は雨の日でも庭に水を撒(ま)く。非正規の不安定な労働環境から解放されたものの、専業主婦の生活にも「私」はなんとなく欠落感を覚えている。
夏の暑い日、姑に頼まれた使いに出た「私」は川沿いの道で奇妙な獣に出くわす。獣を追いかけているうちに、そう、穴に落ちるのだ。
胸のあたりというこの穴の深さが絶妙である。頭の位置が地表すれすれになっただけで物の見え方・聞こえ方が変わる。そのことを、不意にカメラをズームアップし、音量つまみをぐいとひねるかのようなユニークな文体が見事に示す。夫の家族は異なる相貌(そうぼう)を見せはじめ、裏の物置からは、いることすら知らなかった夫の兄まで現れる!
20年も物置で暮らす〈ヒキコモリ〉のこの「義兄」の存在はあまりに荒唐無稽だ。彼は「私」の幻覚や妄想なのか? だが彼の世間からの徹底的なズレぶりは、田舎であれ都会であれ、我々が口にせずとも日々の生活で感じているかすかな違和感や不安をズームアップあるいはフルボリュームにしたものではないか。
妻と話すときも携帯をいじる夫、水撒きのホースを手から離さない義祖父、壁の穴から「義兄」の手を握る隣家の子供。誰もが人とつながりたいが、つながり方と対象が微妙にズレている。だからこそ我々は穴に落ちる。あなたの伸ばした手を握り引っぱり上げてくれる人は必ずいるから。
朝日新聞 2014年2月2日
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