書評

『藤村のパリ』(新潮社)

  • 2025/07/02
藤村のパリ / 河盛 好蔵
藤村のパリ
  • 著者:河盛 好蔵
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(400ページ)
  • 発売日:2000-08-30
  • ISBN-10:4101026041
  • ISBN-13:978-4101026046
内容紹介:
姪との「不倫」に苦悩した島崎藤村は、逃げるようにしてフランスへ渡った。折しも勃発した第一次世界大戦に濃く色どられた約三年間のパリ生活で、藤村は何を観、何を聴き、どんな事態を体験したのか?下宿の女主人との関係は?河上肇や藤田嗣治ら、パリの日本人たちとの交友は?人間への好奇心、その飽くなき情熱が生き生きと蘇えらせる、藤村の歩いたパリ。読売文学賞受賞。

経験が生む芳醇な味、足跡追う探査の執念

島崎藤村は一九一三(大正二)年四月十三日、神戸港を出帆、五月二十日マルセイユに着き、一九一六年初夏までパリに滞在した。かぞえ四十二歳の藤村は姪(めい)のこま子との不倫に悩んだ末、「深い溜息の一つも吐くつもりで」パリに向かったのだが、そのことを知らない文壇では、藤村の洋行を一大壮挙として羨望(せんぼう)する人は少なくなかった。

フランス文学者である著者は、藤村に遅れること十五年の同じ季節、同じ航路で渡仏している。本書は藤村の「『エトランゼエ』を鞄に忍ばせ、パリの宿舎でくり返し読み耽った」河盛氏の、若き日へのセンチメンタル・ジャーニーといえよう。

引用はやや長い。しかし「これを書き写しながら、私自身も、その蒸し暑さと、船に荷物や石炭を積み込むさわがしい音に、一晩中眠れなかったシンガポールの夜をまざまざと思い出した」といった体感あふれる文章が、ほかの誰につづれようか。

すでに著者の最初の渡仏からさえ六十数年がたち、月日は経験を磨き、このうえなく芳醇にするのに十分であった。藤村が四十日の船旅を経て到着した都市は、十数時間のフライト、二十万円のパック旅行で行けるパリではない。二千円近い旅費をどう新潮社から引き出したか、朝日新聞への寄稿料五十円で藤村は何を書いたか、経済に及ぶ筆は実証的だ。

藤村の下宿したパリ第十四区ポール・ロワイアル通りなどについて、著者の地理や歴史への知識が活用されて見事である。なお感動的なのは、藤村が四年を過ごした下宿の女主人マダム・シモネエについて、ついに名前や生没年を明らかにしたことだ。その名はマリー、藤村下宿時五十六歳。「この事実からどのような結論を出すかは藤村研究家の自由である……」

ほかに河上肇、石原純、浜田青陵、野口米次郎などが下宿し、山本鼎、郡虎彦らが訪ねた重要な場所であれば、探査の執念は称賛されるべきだろう。

それにしても大正のパリ。ドビュッシーが指揮しニジンスキーが踊り、藤田嗣治が騒ぎ、ジョレスが暗殺され、戒厳令の布(し)かれたパリ。私はこの本を鞄(かばん)にしのばせていつの日か、かの都へ行きたい。
藤村のパリ / 河盛 好蔵
藤村のパリ
  • 著者:河盛 好蔵
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(400ページ)
  • 発売日:2000-08-30
  • ISBN-10:4101026041
  • ISBN-13:978-4101026046
内容紹介:
姪との「不倫」に苦悩した島崎藤村は、逃げるようにしてフランスへ渡った。折しも勃発した第一次世界大戦に濃く色どられた約三年間のパリ生活で、藤村は何を観、何を聴き、どんな事態を体験したのか?下宿の女主人との関係は?河上肇や藤田嗣治ら、パリの日本人たちとの交友は?人間への好奇心、その飽くなき情熱が生き生きと蘇えらせる、藤村の歩いたパリ。読売文学賞受賞。

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初出メディア

朝日新聞

朝日新聞 1997年8月3日

朝日新聞デジタルは朝日新聞のニュースサイトです。政治、経済、社会、国際、スポーツ、カルチャー、サイエンスなどの速報ニュースに加え、教育、医療、環境、ファッション、車などの話題や写真も。2012年にアサヒ・コムからブランド名を変更しました。

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