書評
『手塚治虫はどこにいる』(筑摩書房)
コマ割りと描線の分析で作品を語る
手塚治虫は生前も没後も繰り返し繰り返し語られ論じられているが、尽きるということがない。言ってしまえば、漫画界の漱石みたいな位置に立っているが、その人を夏目房之介が論ずるというのだから、なにはともあれページを開かねばなるまい。開くとそこにはデキゴトロジーとは違う顔の房之介が立っている。泣いておるのだ。
一九八九年二月九日、手塚治虫さんが亡くなられた。……亡くなったことを知ってから、あちこちの連載にかたっぱしから追悼文を書いた。……書き終えると、みぞおちのあたりから痙攣が馳せのぼってきて、泣く。
『うおっうおっうおっおっおっ』と、まるでオットセイである。
家伝の胃弱体質の房之介が、あたりかまわずオットセイのように泣くというのだから、その悲しみはいかばかりだろう。
これまでの多くの手塚論は、いや、漫画論全体が、たとえば鶴見俊輔の戦後社会との関係論を先駆例として、『ジャングル大帝』や『鉄腕アトム』の中に社会や思想を直接、読み取る傾向が強かった。文学や映画で鍛えた視線を漫画にも向けたのである。
これに対し、四方田犬彦、呉智英などの戦後生まれの、アトムで育ちカムイで大人になった世代は食い足りなさを覚え、ここ数年、漫画という固有の表現形式を踏まえることで新しい成果をあげている。文学にたとえるなら、ちゃんと文体まで論じ、文体までつながらない社会や思想はないものとするのである。
房之介も同じ立場に立ち、漫画の文体はコマ割りと描線の二つからなることを指摘したうえで、手塚のコマ割りがいかに自在に時間の流れをコントロールし、読者を引き込まずにはおかない物語性を獲得したかを述べるが、私としては、デキゴトロジーの房之介漫画のコマ割りがなぜ時間の流れと物語性を放棄しているのかについて考えた。
コマ割り論よりは描線論の方が房之介の「手塚オタク」ぶりが発揮され、えらく具体的で説得力がある。『吾輩は猫である』に相当する『ジャングル大帝』のレオの表情を例にあげると、描線が丸く丸く運動していることを指摘し、レオの内側から何かが湧きあがっている反映と説明する。また、それまで一般的だった黒ベタ塗りのタドン状目玉に手塚がはじめて星を入れ、目を心の窓として描いたことについて、「それは、そのひかりが、タドンの中にともされた自意識という〈内面〉のひかりだからなのである」。
こうした具体的な描線の分析を通して、レオやアトムが戦後復興期の時代と社会の中で子供たちと共有していたものが何であったかを語るのである。
そしてその後、レオやアトムが時代とズレを起こしてゆく過程もたどる。アトムはもちろん妹のウランちゃんや弟のコバルトという名も今からみるとすごい名だ。レオの描線が、昭和二十年代の発表当初と昭和五十年代の改訂版でどう変わったかの比較は説得力があるから、絵をじっくり見ていただきたい。たしかに、当初はあった生命感や内面の充実は消え、ただの記号になってしまっている。
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする