書評
『秘密諜報員ベートーヴェン』(新潮社)
恋文を装った政敵情報の通信文
音楽史上、もっとも論争のにぎやかな事件の一つに、ベートーヴェンの〈不滅の恋人〉問題がある。死後、ベートーヴェンの遺品の中から、三通の自筆書簡が出てきた。相手を〈不滅の恋人〉と呼びながら、具体的な名前を書き記していない、やっかいな恋文である。従来、音楽史家はさまざまな状況証拠から、この秘密の恋人を特定しようと、論陣を張り合った。いわく、ピアノの弟子のジュリエッタ・グイッチャルディ。やはり弟子のテレーゼ・フォン・ブルンスヴィク。名指しされただけで五人もの女性が俎上(そじょう)に載せられた。しかしどれも決め手に欠け、いまだに結論が出ていない。
しかるに本書の著者は、あっと驚く仮説を提示する。〈不滅の恋人〉なる女性など、はなから存在しない。手紙そのものが恋文を装った秘密の通信文で、ベートーヴェンは親しいパトロンにあてて、政敵の情報を伝えたのだ、という。傍証として、著者は当時の欧州の政治経済情勢を、克明に再現する。いささか、牽強付会(けんきょうふかい)と思われる考察もあるが、常識を打ち破る大胆な仮説には、それなりに説得力がある。
朝日新聞 2010年7月18日
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