書評

『ゲーテはすべてを言った』(朝日新聞出版)

  • 2025/05/25
ゲーテはすべてを言った / 鈴木 結生
ゲーテはすべてを言った
  • 著者:鈴木 結生
  • 出版社:朝日新聞出版
  • 装丁:単行本(200ページ)
  • 発売日:2025-01-15
  • ISBN-10:4022520396
  • ISBN-13:978-4022520395
内容紹介:
高明なゲーテ学者、博把統一は、一家団欒のディナーで、彼の知らないゲーテの名言と出会う。
ティー・バッグのタグに書かれたその言葉を求めて、膨大な原典を読み漁り、長年の研究生活の記憶を辿るが……。
ひとつの言葉を巡る統一の旅は、創作とは何か、学問とは何か、という深遠な問いを投げかけながら、読者を思いがけない明るみへ誘う。
若き才能が描き出す、アカデミック冒険譚!

そして…混淆と渾然 震災が生んだ祈り

博把統一(ひろばとういち)は、ゲーテ研究を専門とする退官間近の大学教授である。彼は遊学時代に聞いた「ゲーテはすべてを言った」なるジョークを一種の天啓と捉え、その言葉を巡る探求を続けて来た。本書は統一の娘婿である「私」が、統一の談話を小説形式でまとめたもの、という説明が冒頭でなされる。複雑な入れ子構造とメタ的な仕掛けにわくわくする。近年で言えば、川本直『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』のテイストに近いだろうか。もっとも、あちらは架空の作家の評伝という体で描かれていたが、本作にはそうした外連味(けれんみ)は乏しい。

本作の核にあるのは「ゲーテはすべてを言った」に加えてもう一つ、ゲーテの言葉とされている「愛はすべてを混淆せず、渾然となす」なる言葉だ。統一は先のジョークに導かれつつ、「すべて」について語るこの言葉の出典を求めて膨大な資料にあたり、学者仲間にメールで問い合わせる。その執拗な探求を支えるのは彼の家族、妻の義子(あきこ)、娘の徳歌(のりか)、娘の婚約者である紙屋綴喜(かみやつづき)(つまり本作の設定上の執筆者)といった面々である。

絢爛たるペダントリーと知的な諧謔を随所にちりばめた本作は、どこか「日常系」漫画のような循環的世界観に彩られてもいる。たたずまいとしては、筒井康隆『文学部唯野教授』などを思わせもするが、風刺や皮肉のニュアンスは乏しい。確かに本作には「闇」はなく、深刻な葛藤も、癒されがたい喪失感も(表面的には)見当たらない。さらに言えば、性の湿度、傷の痛みといった「身体性」も希薄である。そうした一切の文学的担保抜きでも、本作の言葉はとても「強い」。

著者は福島出身で、小三の時に自宅で被災した。原発事故は少年を一気に大人にした。楽しかった福島の記憶を留めようと、彼は小説を書き始めた(二〇二五年三月一一日朝日新聞夕刊など)。本作にもわずかながら、被災の記憶が影を落としている。統一の義父である芸亭學(うんていまなぶ)は震災を契機に都内から仙台に転居しているし、正月に仙台の義父母を訪れた統一一家は、テレビで能登半島地震のニュースに耳をそばだてる。

被災はフィクションを衰弱させる。関東大震災後には多くの作家が文学の無力を訴えた。阪神淡路大震災後に精神科医の安克昌(あんかつまさ)は「リアル病(フィクションの価値が信じられなくなること)」を提唱した。なぜこの著者は文学を、言葉を断念しなかったのか。もはやその理由は明らかだ。

彼は「言葉」を信じている。「善い言葉とはすべて演技だとしても、だからといって、そこに意味がないということではない。それは何度も訓練し、口に慣らしていく中で自然さを獲得し、やがてその意味が開示されるだろう。そう信じるとすれば、言葉はどれも未来へ投げかけられた祈りである」という統一の思いのように。

きらびやかな間テクスト性に彩られた本作からは「小説を読む歓び」が横溢している。引用から引用へ、名言から名言へと回付される言葉こそは、混淆と渾然を分かつ当のものだ。それこそは愛の作用であると同時に、祈りの効用でなければ何だろうか。そう、本作もまた「震災文学」の傑作なのである。
ゲーテはすべてを言った / 鈴木 結生
ゲーテはすべてを言った
  • 著者:鈴木 結生
  • 出版社:朝日新聞出版
  • 装丁:単行本(200ページ)
  • 発売日:2025-01-15
  • ISBN-10:4022520396
  • ISBN-13:978-4022520395
内容紹介:
高明なゲーテ学者、博把統一は、一家団欒のディナーで、彼の知らないゲーテの名言と出会う。
ティー・バッグのタグに書かれたその言葉を求めて、膨大な原典を読み漁り、長年の研究生活の記憶を辿るが……。
ひとつの言葉を巡る統一の旅は、創作とは何か、学問とは何か、という深遠な問いを投げかけながら、読者を思いがけない明るみへ誘う。
若き才能が描き出す、アカデミック冒険譚!

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2025年3月22日

毎日新聞のニュース・情報サイト。事件や話題、経済や政治のニュース、スポーツや芸能、映画などのエンターテインメントの最新ニュースを掲載しています。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
斎藤 環の書評/解説/選評
ページトップへ