後書き
『ロリータ』(新潮社)
『ロリータ』の五〇年――訳者あとがき
本書は、二〇世紀にそびえる小説家の一人、ウラジーミル・ナボコフの代表作『ロリータ』の新訳版である。一八九九年にロシアのサンクト・ペテルブルグで、政治家の息子として生まれたナボコフは、ロシア革命で祖国を離れてから、主にベルリンで亡命者としての生活を送り、ロシア語で小説を発表していた。三〇年代の終わりに英語作家に転身することを計画し、一九四〇年にはアメリカに渡って、大学で教鞭を執りながら英語による小説を発表しはじめた。その時期に発表した長篇小説としては、『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』(一九四一)と『ベンド・シニスター』(一九四七)の二作がある。
アメリカに渡ってから知り合いになった、文壇の大物エドマンド・ウィルソンの引きによって、雑誌《ニューヨーカー》など高額の原稿料を支払ってくれる場所で短篇小説を書いて食いつないではいたものの、妻子を抱えた生活は経済的にも楽ではなかった。当然ながら、そういう状態から脱却できるような売れる小説を書きたいという気持ちも、ナボコフの心の中には間違いなくどこかにあったはずだ。その夢は、まったく思いがけない形で実現することになる。
『ロリータ』は、当初『海辺の王国』という仮題で、一九五〇年に執筆が始められた。ナボコフはその出来具合に満足せず、いったんは執筆を断念して原稿を焼却しようとしたところ、妻のヴエーラの忠告で思いとどまったというエピソードも残っている。
当時ナボコフは、大学の休暇期間になると、妻が運転する車に乗って、子供の頃からの趣味であった蝶の採集のために全米を旅行した。そしてその旅先で、『ロリータ』は断続的に書きつづけられた。このときの旅行体験は、『ロリータ』の筋書きや細部に活かされている。そうして『ロリータ』がついに完成したのは、一九五三年一二月六日のことであった。
しかし、『ロリータ』という書物の奇妙な旅は、そこから始まる。本書に作者自身が付けた「『ロリータ』と題する書物について」というあとがきに詳しく述べられているとおり、アメリカの出版社に持ち込まれた原稿は次から次へと出版を断られた。当時コーネル大学に勤めていたナボコフは、この小説を本名で発表すれば大学の職を奪われるかもしれないと恐れ、筆名で発表することを求めていたが、それは出版社の側からすれば受け入れられる条件ではなかったという事情もある。出版社探しで一年以上が経過して、ヨーロッパでの出版をナボコフが模索しはじめたとき、偶然に浮上したのがパリのオリンピア・プレスという出版社であり、その社主モーリス・ジロディアスである。そしてオリンピア・プレスとは、〈トラヴェラーズ・コンパニオン〉というシリーズで悪名高い、ポルノ小説を出している出版社だった。
『ロリータ』の出版をめぐっては、ナボコフとジロディアスの言い分は食い違っていて、その確執は出版後も長く続いたが、ここでは詳細に立ち入らない。そのあたりの興味津々たるエピソードは、日本では早くから植草甚一氏が何度か紹介していたし、近年でも、オリンピア・プレスとジロディアスの冒険を綴った読み物である、ジョン・ディ・セイント・ジョアの『オリンピア・プレス物語――ある出版社のエロティックな旅』(河出書房新社)が一章を割いているので、そちらをお読みいただきたい。それはともかく、『ロリータ』はそうして〈トラヴェラーズ・コンパニオン〉の一冊として、一九五五年九月に緑色のカヴァーの上下二巻本で世に出た。今からちょうど五〇年前のことである。
もしそこで『ロリータ』出版の物語が終わっていたとしたら、この小説はそれほど有名にならなかったかもしれない。ところが、そこでもまた『ロリータ』に不思議な運命が待ち受けていた。同じ年の一二月に、英国小説家のグレアム・グリーンが、ロンドンの《サンデー・タイムズ》紙で、今年度の収穫三冊のうちの一冊として『ロリータ』を取り上げたのである。さらに翌年、別の書評者が『ロリータ』をポルノ小説だと酷評し、絶賛したグリーンを非難したところから、時ならぬ論争が巻き起こり、その噂がアメリカにも伝わって、たちまち『ロリータ』はスキャンダラスな書物としてその名が知られることになった。版権の問題が解決して、ようやくアメリカでパトナム社から一九五八年八月一八日に『ロリータ』が出版されると、たちまち三週間のうちに十万部が売れたという。これは『風と共に去りぬ』以来の記録だそうだ。
『ロリータ』がベストセラーになったことで、思いがけなく富と名声を一挙に手にしたナボコフは、大学の職を辞して執筆に専念できるだけのゆとりを得た。そして一九五九年に、二〇年近く暮らしたアメリカを離れてヨーロッパに移り、一九七七年に亡くなるまで、スイスのモントルーにある高級ホテルで精力的な執筆活動を続けた。これが『ロリータ』をめぐる事件の顛末である。
(次ページに続く)
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