書評
『熱帯雨林の彼方へ』(新潮社)
カレン・テイ・ヤマシタ(Karen Tei Yamashita 1951- )
日系アメリカ人の作家。1974年、大学卒業後、日本移民の歴史と人類学の研究をするために奨学金を得てブラジルにわたり、同地で結婚。70年代半ばから短篇小説を発表し、1984年に家族でロサンゼルス移住後は前衛的劇作家としても頭角をあらわす。第一長篇『熱帯雨林の彼方へ』(1990)で、作家として本格デビュー。そのほかの著作にBrazil-Maru(1992)、Tropic of Orange(1997)、エッセイと短篇を集めたCircle K Cycles(2001)がある。introduction
先に取りあげたアジェンデ『精霊たちの家』につづいて、ここでもまた、ぼくは“日常”ということを強く意識している。もとの原稿(雑誌連載時)は一年もあいだがあいているのだが、ずっと心に引っかかっていたのだろう。いまでも書評や作品論を書くときに「日常」という言葉を使おうとして、そこにどういう意味が含まれるのか、読む人にどう受けとられるかなど、ずいぶんと悩む。おなじような言葉に「世界」や「現実」がある。さらにいえば、「日常/想像」「世界/自分」「現実/虚構」という対概念が、ぼくの思考の根底にあって、この二分法がどうやって維持されるか、あるいはどんなふうに崩すべきか、そんなことばかりを考えている。その思考を転がす梃子として、文学はかけがえのないものなのだ。▼ ▼ ▼
カレン・テイ・ヤマシタは『熱帯雨林の彼方へ』の序文で、この作品を「ソープオペラ」と称している。「ソープオペラ」とはテレビの連続ドラマのことで、ふつうはあまり肯定的なニュアンスで使われない。安っぽい大衆娯楽といったところだ。だが、ヤマシタが自作を「ソープオペラ」と呼ぶのは、謙遜でも自嘲でもない。ましてや「この作品はエンターテインメントだからこれでいいのだ」と開きなおっているわけでもない。余談だが、作者が声高にエンターテインメントを唱える作品にかぎって退屈だ。こうやれば読者は喜ぶのだと甘くみているからだ。『熱帯雨林の彼方へ』はそんな慢心はない。頭のてっぺんから尻尾の先まで、アトラクションがぎっしり詰めて、読者の期待をつねに超えていく。
はじめのうちは複数のストーリイが平行して進んでいくが、そのひとつひとつが奇妙奇天烈で、よくもまあこれだけ考えつくものだというくらいだ。
雷鳴と豪風がともなう奇現象がきっかけで、頭の前に回転する球体を携えるようになった日本人の少年カズマサ・イシマル。この宙に浮いた小さなボールは、一種のセンサーのような働きをし、やがてカズマサを数奇な運命にいざなっていく。
三本の腕を持つ男トゥイープ。彼はなんでも手際よくこなしすぎるため、仕事にあぶれていた。しかし多角的事業を繰りひろげる企業体GGGに就職、〈開発資源可能性調査部〉に配属されるなり、“三数偶然選択法”なる思考法で、メキメキと頭角をあらわしていく。彼はのちに、三つの乳房を持つフランス人の鳥類学者ミッシェルと結婚することになる。
サンパウロの街角で、怪我をした鳩を拾ったことから、伝書鳩の趣味にのめりこんだ夫婦、バティシュタとタニア。バティシュタは、なぞなぞやジョークを伝言にして鳩を放す。家ではタニアや近所の子どもが、それを楽しみに待ちかまえている。バティシュタの鳩が運ぶメッセージはしだいに評判となり、それを一種の神託・預言と受けとめる者さえ出てくる。やがてタニアは、伝書鳩を使った大事業を思いつくことになる。
アマゾン川の南側に土地を持つ老人マネ・ペータ。豪雨による土砂を取りのぞくと、得体の知れない固い物質でできた広大な平地があらわれた。この平地はマタカンと呼ばれるようになり、全世界から科学者や超常現象研究家、マスコミが押しよせる。マネ・ペータは鳥の羽をまじないに使っていたが、その習慣もブラウン管を通して紹介され、かくして、鳥の羽を使った魔法が一大ブームとなる。
テレビでマタカンの存在を知り、聖なる地に違いないと思いこんだ青年シコ・パコ。彼には、足の不自由なジルベルトという幼なじみがいたが、奇跡が起こってその足が直ってしまう。シコ・パコはその奇跡に感謝するために、自分の住む海岸の村からマタカンまでの二千五百キロを裸足で歩いて、かの地に聖堂を建立する。この気貴き行為は、広く人々の知るところとなり、シコ・パコは〈天使〉として尊敬を集める。
こんなふうに紹介していたらキリがない。超常現象、奇跡、変人、奇人、聖人、魔法、都市神話、などなどが、これでもかといわんばかりに湧きでてくる。しかし、その反面、日常性というか生活感というか、平然とした気持ちが作品の底に流れている。
たとえば、額の前にボールを浮かせたカズマサだが、ほかの子と同じように遊び、学校に通い、高校を卒業して国鉄に就職をする。そこで彼はボールの不思議な力に気づく。線路に瑕疵があると、ボールが跳ねあがるのだ。かくして、彼とボールは全国をまわり、鉄道の保安をおこなうようになる。カズマサの知り合いのうち、だれかひとりくらい「ボールの正体をしかるべき研究機関で調査すべきだ」と言ってもいいと思うのだが、そんなことは起こらない。トゥイープの三本腕だって、GGGの人事担当者が「わが社では、ハンディキャップによる差別はしない方針なの」なんて言う程度。
常識はずれの人物が登場し、超現実的な出来事が起こるのに、物語全体としては日常から逸脱しないし、ファンタスティックな飛躍も少ない。なるほど、これが「ソープオペラ」たるゆえんか。もっとも日常から脱出するだけが、想像力ではなかろう。日常のなかにとどまりながら、不思議なものを飲みこんでいく想像力もある。かくして日常は、どんな異世界よりも、驚異に満ちた空間になる。
伝書鳩は「ボールを持った日本人がブラジルで友情と富を得るであろう」というメッセージを運んでくるが、それを書いたバティシュタは、ごくありふれた男だ。その彼がどうして、こんな予言ができたのか、いっさいの説明がない。しかしその予言のとおり、移民してきたばかりのカズマサは、くじで大あたりをし、人々からもてはやされる。
一方、GGGのトゥイープはマタカンを調査し、謎の物質は特別なプラスチックであり、産業用材料としてすばらしい特質と応用性があることが確認する。また、GGGは、魔法の羽(いまや世界的な流行になっていた)さえもマタカン・プラスチックで作って、販売していた。プラスチックに備わった時期はある条件下で幻覚作用を引きおこし、人々は神秘体験を得たり、何日も休まずに踊りつづける。また、ひょんなことから、カズマサのボールにはこの物質に感応する力があることが判明し、トゥイープは彼を新鉱脈探しに利用しようとする。そのほかの登場人物たちも、不思議な偶然、奇妙な縁によって引きあわされていく。
登場人物たちがマタカンに揃うのと前後して、一挙に悲劇が襲ってくる。マネ・ペータの羽も、シコ・パコの無垢な命も、バティシュタの鳩たちも、トゥイープの野望も、そしてカズマサのボールも、すべてが失われてしまう。まるでドミノ倒しのように。残るのは、カーニバルが終わったあとのような寂寥感である。「ソープオペラ」といえども、ハッピーエンドとはかぎらないのだ。
【新版】
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