書評
『流線形シンドローム 速度と身体の大衆文化誌』(紀伊國屋書店)
現実性のない提案や、役に立たない議論はよく「文学的」と椰楡される。それに対し、「科学的」というと、つねに客観的で、正しいというイメージがある。この魔法の言葉さえ冠せば、誰でも反対できなくなる。そのためか、現代批評では幅広いことが対象とされながら、「科学」とかかわりのあることは迂回されてきた。映画、演劇、絵画、音楽などについては、これまで多くの表象分析が行われてきたが、科学イメージに関してはほとんど触れられていない。本書はまずその盲点をついた。
さまざまな「科学」表象のなかでも、著者が注目したのは「流線形」である。学術用語として、流線形は流れのなかに物が置かれたときに、流線と一致する形のことをいう。しかし、この言葉は空気動力学の用語でありながら、大衆文化の文脈において、きわめて情緒的に流用されてきた。数々の科学イメージのなかで、これほど文化の表層と深いかかわりを持つものも珍しい。そこに目をつけたのは炯眼といえよう。
流線型はそれ自体が目に見えず、物体の外形を通してしか知覚できない。この言葉は科学と抒情の両面の含意を持っており、一筋縄ではいかない。しかも、異なる文化や歴史背景のなかで、必ずしも同じように語られてきたわけではない、問題を多面的に捉えるために、本書ではアメリカ、ドイツ、日本という三つの観測点が設けられた。
アメリカでは一九一一年、ポピュラー科学雑誌に登場したのをきっかけに、流線形は一種のイメージ言語になり、未来を象徴する記号となった。
二十世紀三〇年代に入ると、市販車の設計に取り入れられ、流線形の大衆化の時代を迎えた。一九三四年を境にして、アメリカ社会は一挙に流線形で溢れていく。流線形自動車、流線形蒸気機関車だけでなく、ゴルフクラブ、扇風機、ひいてはマイク、インターフォン、配膳台などおよそ空気抵抗となんの関係もないものにも応用されていく。
本書はイメージそのものよりも、どのように語られたかに力点が置かれている。雑誌記事、写真、イラストや広告など、多様な表象行為の検証を通して、流線形イメージの拡大現象には三つの段階があることが突き止められた。第一段階ではもっぱら速度のある物の比喩表現であるのに対し、第二段階では「空気抵抗」と関係のない静止物体とのあいだにも隠喩関係が出来上がる。
その場合の流線形イメージは、たんに抵抗を排して無駄がないということだけではない。先進的で、趣味が良く、優雅で、美しいといったニュアンスを持つようになる。最後に流線形は必ずしも「形状」ではなくなり、役に立たない因子を排し、効率的な設計思想という意味を帯びるようになる。このあたりから、英語の「流線形」という言葉の語義にも質的な変化が起きた。もはや物の形を指すのではなく、「能率化する」あるいは「合理化する」といった意味を表すようになる。
興味深いことに、流線形イメージは人体表象にも影響をおよぼした。女性のファッション雑誌では補整下着、水着、ドレスなどの宣伝にも盛んに用いられ、流線形ボディーラインが理想的な体型の記号として語られていた。
同じ流線形シンドロームでも、アメリカとドイツと日本ではそれぞれに違う。ドイツは流線形の「発祥地」とも言える。空気抵抗の科学的解明から、自動車、飛行機、潜水艦などへの応用、および流線形の理論への取り組みにいたるまで、つねにほかの国を一歩リードしていた。ただ、アメリカに比べて、流線形という言語運用は厳格で、また、その語り口は国家主義的な価値観と共鳴しあっていた。アメリカの流線形デザイン思想は、進化論と優生学を成立させる言説の枠組みにおいて語られたのに対し、ナチスドイツの流線形思想は、自然と技術の融合という枠組みのなかで神話化された。優生学的表象機能を帯びなかったのは、わざわざそうするまでもなく、流線形がナチスの排他的な民族主義的概念装置だったからだ。こうした意外な事実は、豊富な引用と丁寧な資料解読によって次々と明らかにされた。
日本における流線形の語り口はどちらかという文学的である。とりわけ、短信記事は日常的な言語を用いながら、感情に訴えるような文体になっている。一方、国産の流線形蒸気機関車が独自に開発され、鉄道に応用されるようになった。自動車のほうも遅れを取っていない。外車か国産車かを問わず、流線形はモダンなデザインの隠喩として乱用された。北米、欧州と日本はたんに互いに参照軸になったのではない。三者の比較は異なる文化/歴史的文脈における科学イメージの表象特徴を炙(あぶ)り出す結果となった。
日本の流線形シンドロームのなかでも、昭和十年頃には一つの際立った特徴がある。推理小説にも映画にも流行歌にも流線形という言葉が踊っていた。「流線音頭」「流線ぶし」などがヒット曲になり、カフェーの看板に「流線形サービス」と書かれ、「流線」のつく言葉が氾濫していた。記号の戯れに徹しているところが、いかにも日本らしい。同じイメージでも、異なる言語文化のなかで、その増殖の仕方がまったく違う。
一本の曲線を追うことで、科学イメージの神話作用が解き明かされたのにとどまらず、二十世紀前半の時代精神と大衆文化の変奏を浮かび上がらせている。
【この書評が収録されている書籍】
さまざまな「科学」表象のなかでも、著者が注目したのは「流線形」である。学術用語として、流線形は流れのなかに物が置かれたときに、流線と一致する形のことをいう。しかし、この言葉は空気動力学の用語でありながら、大衆文化の文脈において、きわめて情緒的に流用されてきた。数々の科学イメージのなかで、これほど文化の表層と深いかかわりを持つものも珍しい。そこに目をつけたのは炯眼といえよう。
流線型はそれ自体が目に見えず、物体の外形を通してしか知覚できない。この言葉は科学と抒情の両面の含意を持っており、一筋縄ではいかない。しかも、異なる文化や歴史背景のなかで、必ずしも同じように語られてきたわけではない、問題を多面的に捉えるために、本書ではアメリカ、ドイツ、日本という三つの観測点が設けられた。
アメリカでは一九一一年、ポピュラー科学雑誌に登場したのをきっかけに、流線形は一種のイメージ言語になり、未来を象徴する記号となった。
二十世紀三〇年代に入ると、市販車の設計に取り入れられ、流線形の大衆化の時代を迎えた。一九三四年を境にして、アメリカ社会は一挙に流線形で溢れていく。流線形自動車、流線形蒸気機関車だけでなく、ゴルフクラブ、扇風機、ひいてはマイク、インターフォン、配膳台などおよそ空気抵抗となんの関係もないものにも応用されていく。
本書はイメージそのものよりも、どのように語られたかに力点が置かれている。雑誌記事、写真、イラストや広告など、多様な表象行為の検証を通して、流線形イメージの拡大現象には三つの段階があることが突き止められた。第一段階ではもっぱら速度のある物の比喩表現であるのに対し、第二段階では「空気抵抗」と関係のない静止物体とのあいだにも隠喩関係が出来上がる。
その場合の流線形イメージは、たんに抵抗を排して無駄がないということだけではない。先進的で、趣味が良く、優雅で、美しいといったニュアンスを持つようになる。最後に流線形は必ずしも「形状」ではなくなり、役に立たない因子を排し、効率的な設計思想という意味を帯びるようになる。このあたりから、英語の「流線形」という言葉の語義にも質的な変化が起きた。もはや物の形を指すのではなく、「能率化する」あるいは「合理化する」といった意味を表すようになる。
興味深いことに、流線形イメージは人体表象にも影響をおよぼした。女性のファッション雑誌では補整下着、水着、ドレスなどの宣伝にも盛んに用いられ、流線形ボディーラインが理想的な体型の記号として語られていた。
同じ流線形シンドロームでも、アメリカとドイツと日本ではそれぞれに違う。ドイツは流線形の「発祥地」とも言える。空気抵抗の科学的解明から、自動車、飛行機、潜水艦などへの応用、および流線形の理論への取り組みにいたるまで、つねにほかの国を一歩リードしていた。ただ、アメリカに比べて、流線形という言語運用は厳格で、また、その語り口は国家主義的な価値観と共鳴しあっていた。アメリカの流線形デザイン思想は、進化論と優生学を成立させる言説の枠組みにおいて語られたのに対し、ナチスドイツの流線形思想は、自然と技術の融合という枠組みのなかで神話化された。優生学的表象機能を帯びなかったのは、わざわざそうするまでもなく、流線形がナチスの排他的な民族主義的概念装置だったからだ。こうした意外な事実は、豊富な引用と丁寧な資料解読によって次々と明らかにされた。
日本における流線形の語り口はどちらかという文学的である。とりわけ、短信記事は日常的な言語を用いながら、感情に訴えるような文体になっている。一方、国産の流線形蒸気機関車が独自に開発され、鉄道に応用されるようになった。自動車のほうも遅れを取っていない。外車か国産車かを問わず、流線形はモダンなデザインの隠喩として乱用された。北米、欧州と日本はたんに互いに参照軸になったのではない。三者の比較は異なる文化/歴史的文脈における科学イメージの表象特徴を炙(あぶ)り出す結果となった。
日本の流線形シンドロームのなかでも、昭和十年頃には一つの際立った特徴がある。推理小説にも映画にも流行歌にも流線形という言葉が踊っていた。「流線音頭」「流線ぶし」などがヒット曲になり、カフェーの看板に「流線形サービス」と書かれ、「流線」のつく言葉が氾濫していた。記号の戯れに徹しているところが、いかにも日本らしい。同じイメージでも、異なる言語文化のなかで、その増殖の仕方がまったく違う。
一本の曲線を追うことで、科学イメージの神話作用が解き明かされたのにとどまらず、二十世紀前半の時代精神と大衆文化の変奏を浮かび上がらせている。
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする