書評
『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』(阪急コミュニケーションズ)
立って読む本思わず緊張、哲学の冒険
稀(まれ)にだが私は本を立って読むことがある。貧しい高校時代、書店で立ち読みをしていたのが癖になったのかもしれない。中身の濃い本の、とくに緻密(ちみつ)な一節にさしかかると、立ちあがって読むほうが頭に入るのである。鷲田清一氏の『「聴く」ことの力』(TBSブリタニカ)は、その意味で私をしばしば起立させた力作であった。晦渋(かいじゅう)な学術書ではなく、専門語で人を煙に巻くような本ではないが、なにぶん「臨床哲学試論」という副題を持つ思索の書である。語り口が柔らかで、考え方もしなやかであるだけに、それに寄り添って読むには逆に緊張が要るのである。
著者のいう「聴く」ことは、人の言葉に耳を傾けることだが、発言の内容を頭で理解することではない。語る人のそばに佇(たたず)み、その思いの切実さを受けとめ、相手の存在を心身ともに迎え入れることである。著者は心理療法や介護の経験を例にあげ、悲しむ人が言葉巧みな慰めよりも、ただ聴いて貰うことでいかに救われるかという事実を指摘する。
手の下しようのない苦痛に立ち会うとき、人にできることはどんな対策でも働きかけでもない。人は黙って聴いて自分の無力をさらけだし、苦痛と無力を共有していることを相手に感じさせることが、究極の慰めとなる。そしてこの「共苦(きょうく)」の働きは人間らしさの証拠として、無価値な苦痛を価値あるものに変えるのである。それはしかし、聴く側の人間にとって自己の存在を賭けた冒険になる。彼は人を外側から「見る」安全な立場、苦痛を説明して片づける傲慢な態度を捨てなければならない。それは彼の主体としての能動性、世界を見渡して説明し、そのなかで自由に行動する自我の立場を脅かすことに通じる。
いいかえれば、それは従来の認識する主体の放棄に導きかねないのだが、著者はあえてそこに新しい哲学の可能性を見ようとする。哲学は純粋な認識をめざして、すでに世界を充分すぎるほど「見て」きた。世界を上から見おろし、より普遍的な知を持つ自由な主体であろうとしすぎてきた。その限界がようやく明らかになろうとしているいま、哲学は自己を逆転して「聴く」ことから再出発してはどうか。壮大な野心を秘めたこの本は、興奮とともにさまざまな望蜀(ぼうしょく)の思いを誘って、懦夫(だふ)をして机の前に立たしめたのであった。
【新版】
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