書評
『科学と人間 科学が社会にできること』(青土社)
数値化が進める近代文明の落日
この2冊は、どちらも科学がますます専門化そして数値化することに対する警告の書である。日本を代表する量子力学の第一人者・佐藤と「生命誌」を提唱する生命科学者・中村から奇(く)しくも同じタイミングで上梓(じょうし)されたのは偶然ではないであろう。科学こそが近代文明を最も特徴づけているのだから、近代を問い直す時代にきているのである。もちろん、2人の論点は異なる。佐藤は科学を四つの領域に区分し、「科学と民主主義」の関係を中心に据えて「社会が科学をもつとは?」を考察している。中村は「人間は生きものであり、自然の中にある」のであって、「科学や科学技術を『自然の側から』見る必要がある」との立場だ。もっとも、佐藤の「四つの科学」の一つである「ワールドビュー」は「自分と外界の関係」のイメージを支えるものだから、両者の視点は水面下では繋(つな)がっている。
そして、どちらも近代固有の「数値化」を問題視している。佐藤は、民主主義が「多数」という数字を重要視するなら、「数は独立性(自由)と等質性(平等)を前提としなければ意味をなさない」という。そして民主主義は「改造」や「進歩」などにおいて明らかに科学の近代化路線と整合的であると指摘する。しかし、エコロジズムに目覚め、「自然との一体感が強調されると」、生命体論は「革新を掲げる民主主義とは根本的な方向が違う」。
中村は「科学的とは多くの場合数字で表せる」から、お金で測った豊かさが手に入るようになる変化を「進歩」と呼び、そのような社会を「先進国の象徴として評価」するようになったという。しかし、「人間は生きもの」であるという観点で見た時には、これこそが「生きることの否定になる」。速くできること、手を抜くことが、時間を紡ぐ、すなわち生きることに逆行するからだ。そして、地球全体を一律にするグローバルな科学技術文明は多様性を否定するので、あきらかに文明の定義から外れていく。
佐藤によれば「民主主義は『大量』の物質を必要とする」。王様しか味わえなかった「珍味・珍体験」に対し、「万人のアクセスを可能にして平等化と画一化をおしすすめる」ものだからである。だが、平準化は民主主義から革新性を奪う。「絆が叫ばれる世相などをみれば、民主主義の終焉(しゅうえん)が射程に入ったかもしれない」という。
別々のアプローチながら結果として「大量」や「過剰」性が問題となるのは、近代システムが機能不全に陥っているからであろう。アドルノがいった「近代自身が反近代をつくる」ということが、まさに今、起きている。
朝日新聞 2013年10月20日
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