書評
『日本のイネ品種考 木簡からDNAまで』(臨川書店)
多様性の力、イネに学ぼう
即位の礼・大嘗祭(だいじょうさい)が、いまごろなのには理由がある。日本が戦争に負けるまで「登極令」という皇室令があって、即位の礼と大嘗祭は「秋冬ノ間」で行うと決められていた。秋冬なのは、新米を刈り取って、新しい天皇に供え、共に食べる方法で、王権を立ててきたからである。この国では、コメ(イネ)が「国家的作物」であった。令和元年の秋に、日本とコメについて、最新研究で考え直そうと、この書物を手に取った。イネ栽培が東アジアで始まり拡散した様子は、植物遺体であるプラント・オパールの分析でかなりわかってきた。植物は、根からケイ酸(ガラス質)を吸い、細胞壁に蓄える。それで植物は腐っても、細胞の形はガラス質の型として土中に数万年は分解されずに残る。最近は、このプラント・オパール内からDNAを抽出したり、炭素を取り出して年代測定したりできるまでになった。
人類とイネの歴史は最新研究によれば、ざっとこうである。1万年前にも中国大陸で野生イネの利用はあった。7000年前に、高床住居に住み、灌漑(かんがい)水路なしで、イネの人工栽培が開始。5500年前に、灌漑水路ありのイネ栽培が発明され、墳丘墓ができ豪華な副葬品もはじまった。イネは畔(あぜ)や水路を整備すると、たくさんとれる。整備するには権力がいる。余ったイネを集積する王も生まれた。イネのせいで人間に身分の上下や職業の別が生じ、クニができたのである。4500年前、寒さに強いジャポニカのコメ栽培が山東半島まで北上。これが千数百年かけて2800年前に韓半島に渡る。最初は、アワ・キビの雑穀にイネが混じる栽培状況が、イネに収れんする。韓半島からは数百年で日本の北部九州に伝播(でんぱ)した。執筆者は、日本列島への伝播をこう考え、長江流域から直接ルートや琉球ルートには否定的である。
実は、日本へのイネ伝来は3波ある。第一、3500年前の縄文稲作。第二、2500年前の弥生稲作インフラ栽培。第三、中世の「大唐米(だいとうまい)」というイネ品種群の伝来である。このイネ伝来の波を浴びるたびに、列島人口は増えた。意外に評価されていないのは第三の「大唐米」である。すでに経済史の斎藤修の指摘があるが、低湿田に適した品種群を開発地で栽培し、平安期の600万人が戦国期に1200万人になり、江戸中期に人口を3000万人に増やすのに寄与しただろうと、私は考えている。
本書には、平川南氏の「木簡」研究による古代のイネの話もある。古代の早稲は120日で収穫。九州~近畿は3月、東北は5月の種まきなど、最新の日本古代農業史が木簡の威力で語られている。前近代のイネ品種はきわめて多様であり、近現代までの育種史は興味深い。江戸期のイネは今より背が高く倒れやすく、穂は大きいが穂数は少なく低収量で粒が落ちやすかった。それを改良した歴史は面白く、一読に値する。日本では1980年代にはじめて、コメが余り、多収穫のコメから、美味なコメに品種開発の方向がかわり、日本中コシヒカリだらけになった。今は「高く売れるコメ」で酒米(酒造用)に開発の力点が移っている。
本書からはイネ品種の多様性が失われることへの危惧が読み取れた。イネは多様と柔軟でこの列島で栄えてきた。多様な遺伝子の素があるからこそ、千変万化して、この島国の人々を長期に養えたのである。イネは日本という国の鏡。先日のラグビー観戦でも感じたが、大嘗祭の秋だからこそ、イネに学んで、日本は純化ではなく、多様性の力を目指したい。
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