自著解説
『〈叫び〉の中世―キリスト教世界における救い・罪・霊性―』(名古屋大学出版会)
中世ヨーロッパに響き渡る〈叫び〉。その多様な音・声に耳を傾けると、どんな世界が立ち現れてくるだろうか――。今年9月に『〈叫び〉の中世――キリスト教世界における救い・罪・霊性』を刊行した後藤里菜氏による、書き下ろしの自著紹介をお届けする。
全三章からなる本書は、こうした音・声のなかでも〈叫び〉を手がかりにして、キリスト教世界の歴史を読み解いてゆく。
他方で、悪魔にとり憑かれた者たちもまた、叫び声を上げた。悪魔憑きは「罪のしるし」であり、当時は病気のひとつでもあった。そしてイエスや聖人が起こす奇跡の筆頭に、まさにこうした病の治癒があげられる。奇跡によって獣のような叫びは消え去り、人間の言葉が取り戻されるのだ。あるいは、森の中や井戸の底から漏れ聞こえてくる呻き声。それは煉獄や地獄で罰を受けて苦しむ死者の叫びとされた。彼らのかわりにその財産を貧者に施したり、祈りを捧げてやることで、叫びは消えたのだという。このように、〈叫び〉は罪とも強いつながりをもっていたのである。
〈叫び〉には、「救い」と「罪」が多様なかたちで織り込まれている。本書ではその実態を、修道院戒律、典礼定式書、聖人伝、エクセンプラ集、異界探訪譚、修道士の著作や年代記といった多岐にわたる史料を丹念に調査し、すくい上げている。
女性が〈叫び〉の歴史において重要な役割を果たしたのは、とりもなおさず、キリスト教世界では男性がしばしば理性や精神と結び付けられたのにたいし、女性は感情や肉体といったものと結び付けられがちであったことを背景としている。〈叫び〉とは、肉体を用いた感情的な行為だからである。
たとえば、修道院には引き籠らず敬虔な生き方、つまり施しを受けて生活を送っていたクリスティーナ・ミラビリスという女性は、ある施し物を口にした時、ヒキガエルの内臓やヘビの腸を飲み込んでいるかのように感じ、「おぉキリストよ、なぜ私にこのようなことをするのか。なぜこのように私を十字架にかけるのか 」と「産婦のように」叫んだという。それは、施し物が「不正な手段で」(“injuste”)得られたものだったからだ。読み書きのできない、感情的な存在だと考えられていた女性にとって、「聖なる真実」とは、味覚のような感覚を通して開示され、肉体的な〈叫び〉によってこそ表現されうるものとして描かれた。
感性や肉体と結び付けられ、〈叫び〉によって聖なる真実を暴く敬虔な女性というイメージ。救いへとつながる〈叫び〉の多様な展開は、その存在なくしてはありえなかっただろう。第2章ではほかにも、12世紀後半から15世紀までの十数名の女性を取り上げながら、その過程をたどってゆく。数こそ多くないものの、なかには女性自身が口述筆記した記録などもあり、女性史の視点からも興味深い。詳細はぜひ本文をご覧いただきたい。
〈叫び〉は、集団で何かを行う際にも重要な役割を果たす。皆で叫ぶことは秩序をつくり、結束力を高めるからだ。磔刑上のイエス・キリストにもならい神に向かって叫んできた民衆たちは、信仰心の高ぶりからやがて天に向かって叫び声を上げながら行進をはじめる。〈叫び〉は集団的な運動を推進するための純粋な原動力となってゆく。
だがそのとき、〈叫び〉は何に向かって叫ばれるのだろうか。神、自分の外側へと向けられていたものが、自分自身の内面にも向かって叫ばれるのだとしたら――。
中世末の都市における宗教運動では、救いの〈叫び〉は新たな変奏をかなでる。近世の幕開けにかけて、その行方を是非見届けてみてほしい。
このほか、各章に付した三つの補論では、音楽・文学・絵画と〈叫び〉との関連を取り上げている。幅広い関心に応じて中世ヨーロッパの音・声をより深く理解してもらえるようにヒントをちりばめておいた。〈叫び〉という風変わりなテーマから歴史を探究した本書。遠いようでいて意外と身近な、不思議に魅力的な中世ヨーロッパ世界のありようがいきいきと立ち現れてくれれば、と著者としては切に願っている。
[書き手]後藤里菜(1986年生まれ。現在、立教大学ほか非常勤講師)
絶叫、悲鳴、熱狂……中世ヨーロッパは叫び声に満ちていた
中世ヨーロッパ。人々は神(イエス・キリスト)を信じ、死後の救いを求めて祈り、自らのささいな罪のための贖いの業に勤しんだ。当時、文字文化は聖職者や修道士などごく一部の人々のものにすぎず、ほとんどの人は「音」と「声」の世界に生きていた。全三章からなる本書は、こうした音・声のなかでも〈叫び〉を手がかりにして、キリスト教世界の歴史を読み解いてゆく。
救いと罪の天秤
中世の人々は、神や聖母マリアに向かって、あるいは聖人――キリスト教世界における人間と神との仲介者――に向かって叫んだ。それは、イエス・キリストその人が「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と十字架の上で叫んだ姿に通じる。このとき、〈叫び〉は救いを求めるための手段である。他方で、悪魔にとり憑かれた者たちもまた、叫び声を上げた。悪魔憑きは「罪のしるし」であり、当時は病気のひとつでもあった。そしてイエスや聖人が起こす奇跡の筆頭に、まさにこうした病の治癒があげられる。奇跡によって獣のような叫びは消え去り、人間の言葉が取り戻されるのだ。あるいは、森の中や井戸の底から漏れ聞こえてくる呻き声。それは煉獄や地獄で罰を受けて苦しむ死者の叫びとされた。彼らのかわりにその財産を貧者に施したり、祈りを捧げてやることで、叫びは消えたのだという。このように、〈叫び〉は罪とも強いつながりをもっていたのである。
〈叫び〉には、「救い」と「罪」が多様なかたちで織り込まれている。本書ではその実態を、修道院戒律、典礼定式書、聖人伝、エクセンプラ集、異界探訪譚、修道士の著作や年代記といった多岐にわたる史料を丹念に調査し、すくい上げている。
聖女たちの〈叫び〉
叫びのたどる道筋に大きな展開をもたらしたのは、女性たちだった。むろん、ほとんどは男性の書き手の目を通してということにはなるが、盛期中世とよばれる12・13世紀以降の時代、彼らが幾人もの「聖女」の伝記をわざわざ書き記したことは注目に値する。女性が〈叫び〉の歴史において重要な役割を果たしたのは、とりもなおさず、キリスト教世界では男性がしばしば理性や精神と結び付けられたのにたいし、女性は感情や肉体といったものと結び付けられがちであったことを背景としている。〈叫び〉とは、肉体を用いた感情的な行為だからである。
たとえば、修道院には引き籠らず敬虔な生き方、つまり施しを受けて生活を送っていたクリスティーナ・ミラビリスという女性は、ある施し物を口にした時、ヒキガエルの内臓やヘビの腸を飲み込んでいるかのように感じ、「おぉキリストよ、なぜ私にこのようなことをするのか。なぜこのように私を十字架にかけるのか 」と「産婦のように」叫んだという。それは、施し物が「不正な手段で」(“injuste”)得られたものだったからだ。読み書きのできない、感情的な存在だと考えられていた女性にとって、「聖なる真実」とは、味覚のような感覚を通して開示され、肉体的な〈叫び〉によってこそ表現されうるものとして描かれた。
感性や肉体と結び付けられ、〈叫び〉によって聖なる真実を暴く敬虔な女性というイメージ。救いへとつながる〈叫び〉の多様な展開は、その存在なくしてはありえなかっただろう。第2章ではほかにも、12世紀後半から15世紀までの十数名の女性を取り上げながら、その過程をたどってゆく。数こそ多くないものの、なかには女性自身が口述筆記した記録などもあり、女性史の視点からも興味深い。詳細はぜひ本文をご覧いただきたい。
群衆の〈叫び〉と中世の宗教運動
さて、中世ヨーロッパには、伝記などが残らない一般信徒も数多く存在した。というより彼らが大半であった。最後の第3章では、歴史上有名な十字軍運動から、鞭打ち苦行運動、さらにはイタリアの都市を舞台とした中世末期の宗教運動にまで視野を広げながら、そうした人々に焦点を当てる。〈叫び〉は、集団で何かを行う際にも重要な役割を果たす。皆で叫ぶことは秩序をつくり、結束力を高めるからだ。磔刑上のイエス・キリストにもならい神に向かって叫んできた民衆たちは、信仰心の高ぶりからやがて天に向かって叫び声を上げながら行進をはじめる。〈叫び〉は集団的な運動を推進するための純粋な原動力となってゆく。
だがそのとき、〈叫び〉は何に向かって叫ばれるのだろうか。神、自分の外側へと向けられていたものが、自分自身の内面にも向かって叫ばれるのだとしたら――。
中世末の都市における宗教運動では、救いの〈叫び〉は新たな変奏をかなでる。近世の幕開けにかけて、その行方を是非見届けてみてほしい。
このほか、各章に付した三つの補論では、音楽・文学・絵画と〈叫び〉との関連を取り上げている。幅広い関心に応じて中世ヨーロッパの音・声をより深く理解してもらえるようにヒントをちりばめておいた。〈叫び〉という風変わりなテーマから歴史を探究した本書。遠いようでいて意外と身近な、不思議に魅力的な中世ヨーロッパ世界のありようがいきいきと立ち現れてくれれば、と著者としては切に願っている。
[書き手]後藤里菜(1986年生まれ。現在、立教大学ほか非常勤講師)
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