解説
『カスティリオーネの庭』(講談社)
ジュゼッペ・カスティリオーネといえば、清代中期に郎世寧(ろうせいねい)の名で活躍したイタリア人のイエズス会土である。一六八八年にミラーノに生まれた彼は、一七一五年、北京に到着、六六年にその地で亡くなるまでじつに半世紀間、東西の画法を折衷した独特の様式の絵画を描き続けた……。
というのが、ほぼ美術史上の常識といえようが、しかしそのカスティリオーネが、清の宮廷で具体的にどのような生活を送り、そしてどのようなドラマを生きたのか、その委細についてはほとんど想像したこともなかった。そう、本書『カスティリオーネの庭』が現れるまでは。
本書は、『契丹伝奇集』(日本文芸社、一九八九、河出文庫、一九九五)、『ゼノンの時計』(日本文芸社、一九九〇)、そして『眠る石』(日本文芸社、一九九三、ハルキ文庫、一九九七、「解説」谷川渥)に続く、中野美代子氏の四冊目の小説である。中国文学、中国図像学研究の第一人者といって過言ではない氏ならではの該博な知識に裏付けられた比類のない想像力によって、異郷=異教の地に果てたイエズス会士の生を再構してみせた力作である。
「庭」というのは、北京西北郊の円明園、より具体的には、その一部をなす西洋楼庭園のこと。物語は、カスティリオーネがミッシェル・ブノアら他のイエズス会士とともに、乾隆帝(けんりゅうてい)のその都度の恣意的な命のままに、噴水時計を、巨大なだまし絵ふうの画軸を、西洋楼を、迷宮を、そしてもちろん数々の絵画を完成させていくその苦心の業の描写を一方の軸とする。東洋の強大な権力者の恣意と西洋人の伝統的な技術知とが静かに、しかし激しい火花を散らしながら、「庭」は次第に新しい様相を帯びていく。
おもしろいのは、十八世紀の北京を物語の舞台としながら、他方でイタリアの芸術史的知識が次々に召喚されることだ。古くはウィトルウィウスの『建築十書』、そしてアンドレーア・ポッツォの『建築と絵画の遠近法』、アタナシウス・キルヒャーの『パベルの塔』『光と影の大いなる術』『普遍音楽』など、十七世紀の書物に触れられるばかりではない。カスティリオーネの思い出のうちに、ティーヴォリのエステ荘を、ローマのジューリア荘を、フラスカーティのピッコローミニ荘を、ローマのトリニタ・デイ・モンテイ教会の鐘楼を、ナヴォーナ広場のベルニーニの四大河の噴水をありありと浮かびあがらせる中野氏の筆致は、芸術史におけるもっともスリリングな局面を嬉々として再現しているかのようだ。本書は、ある意味で、特異な比較芸術学的研究としても読めるのである。
私事にわたるが、中野氏の挙げているのは、かつて一年間ローマに滞在していた私にとってもじつに懐かしい場所ばかりであって、なかでも物語のひとつの重要な契機となっているサンテイニャーツィオ聖堂には、ナヴォーナ広場の裏に借りていたアパートから、しばしば足を向けたものだった。氏は、そこでポッツォの描いた「幻想のクーポラ」を見た若きカスティリオーネの「その遠近法の法悦」に言及しているが、どんなに目を凝らしても私には残念ながら、くだんの円天井(クーポラ)が黒っぽい空間としてしか映らなかったことを告白しなければならない。なにせポッツォが描いてから、すでに三百数十年も経過しているのである。
だが、この聖堂の真の目玉は、同じポッツォによる天井画(クアドラトウーラ)、《聖イグナティウスの勝利》である。四角い平面の天井が、そのまま上方へと突き抜け、屹立する荘厳な建物から上空へと無数の聖人たちが舞い上がっていくように見える。拙著『図説・だまし絵』(河出書房新社、一九九九年)の第一章「建築空間の偽装」のなかで、私はこれを採り上げ、その「下から上(デイ・ソツト・イン・スー)へ」見上げるだまし絵的な「偽装」のありようを説明したことがあるが、氏は、本書において、その天井画の下絵を見た乾隆帝に、「しかし、朕(ちん)には、人みな上から下へ落ちていくように見えるぞ」といわせている。「下から上へ」という聖性の方向が、「上から下へ」とさりげなく逆転されるこのくだりに、聖と俗との、西洋と東洋との、そしてカスティリオーネと乾隆帝との微妙にして決定的な差異・確執が象徴されていると見ても間違いではないだろう。
そして物語は、「下から上へ」水を噴き上げ、また「上から下へ」水が落ちる噴水を重要なモチーフとして展開されることになる。ちなみに、中野氏は、本書の前に刊行された『奇景の図像学』(角川春樹事務所、一九九六年)に収められた「噴水のある庭」という文章において、澁澤龍彥の庭園論などに触れながら、東西の噴水のありようについてすでに興味深い記述を残しているが、その「追記」に、イタリアを訪れて「得られた新たな知見」は「企画中の次なる仕事のなかに生かされるであろう」と書きとめている。この「次なる仕事」こそ本書にほかならないわけである。
(次ページに続く)
というのが、ほぼ美術史上の常識といえようが、しかしそのカスティリオーネが、清の宮廷で具体的にどのような生活を送り、そしてどのようなドラマを生きたのか、その委細についてはほとんど想像したこともなかった。そう、本書『カスティリオーネの庭』が現れるまでは。
本書は、『契丹伝奇集』(日本文芸社、一九八九、河出文庫、一九九五)、『ゼノンの時計』(日本文芸社、一九九〇)、そして『眠る石』(日本文芸社、一九九三、ハルキ文庫、一九九七、「解説」谷川渥)に続く、中野美代子氏の四冊目の小説である。中国文学、中国図像学研究の第一人者といって過言ではない氏ならではの該博な知識に裏付けられた比類のない想像力によって、異郷=異教の地に果てたイエズス会士の生を再構してみせた力作である。
「庭」というのは、北京西北郊の円明園、より具体的には、その一部をなす西洋楼庭園のこと。物語は、カスティリオーネがミッシェル・ブノアら他のイエズス会士とともに、乾隆帝(けんりゅうてい)のその都度の恣意的な命のままに、噴水時計を、巨大なだまし絵ふうの画軸を、西洋楼を、迷宮を、そしてもちろん数々の絵画を完成させていくその苦心の業の描写を一方の軸とする。東洋の強大な権力者の恣意と西洋人の伝統的な技術知とが静かに、しかし激しい火花を散らしながら、「庭」は次第に新しい様相を帯びていく。
おもしろいのは、十八世紀の北京を物語の舞台としながら、他方でイタリアの芸術史的知識が次々に召喚されることだ。古くはウィトルウィウスの『建築十書』、そしてアンドレーア・ポッツォの『建築と絵画の遠近法』、アタナシウス・キルヒャーの『パベルの塔』『光と影の大いなる術』『普遍音楽』など、十七世紀の書物に触れられるばかりではない。カスティリオーネの思い出のうちに、ティーヴォリのエステ荘を、ローマのジューリア荘を、フラスカーティのピッコローミニ荘を、ローマのトリニタ・デイ・モンテイ教会の鐘楼を、ナヴォーナ広場のベルニーニの四大河の噴水をありありと浮かびあがらせる中野氏の筆致は、芸術史におけるもっともスリリングな局面を嬉々として再現しているかのようだ。本書は、ある意味で、特異な比較芸術学的研究としても読めるのである。
私事にわたるが、中野氏の挙げているのは、かつて一年間ローマに滞在していた私にとってもじつに懐かしい場所ばかりであって、なかでも物語のひとつの重要な契機となっているサンテイニャーツィオ聖堂には、ナヴォーナ広場の裏に借りていたアパートから、しばしば足を向けたものだった。氏は、そこでポッツォの描いた「幻想のクーポラ」を見た若きカスティリオーネの「その遠近法の法悦」に言及しているが、どんなに目を凝らしても私には残念ながら、くだんの円天井(クーポラ)が黒っぽい空間としてしか映らなかったことを告白しなければならない。なにせポッツォが描いてから、すでに三百数十年も経過しているのである。
だが、この聖堂の真の目玉は、同じポッツォによる天井画(クアドラトウーラ)、《聖イグナティウスの勝利》である。四角い平面の天井が、そのまま上方へと突き抜け、屹立する荘厳な建物から上空へと無数の聖人たちが舞い上がっていくように見える。拙著『図説・だまし絵』(河出書房新社、一九九九年)の第一章「建築空間の偽装」のなかで、私はこれを採り上げ、その「下から上(デイ・ソツト・イン・スー)へ」見上げるだまし絵的な「偽装」のありようを説明したことがあるが、氏は、本書において、その天井画の下絵を見た乾隆帝に、「しかし、朕(ちん)には、人みな上から下へ落ちていくように見えるぞ」といわせている。「下から上へ」という聖性の方向が、「上から下へ」とさりげなく逆転されるこのくだりに、聖と俗との、西洋と東洋との、そしてカスティリオーネと乾隆帝との微妙にして決定的な差異・確執が象徴されていると見ても間違いではないだろう。
そして物語は、「下から上へ」水を噴き上げ、また「上から下へ」水が落ちる噴水を重要なモチーフとして展開されることになる。ちなみに、中野氏は、本書の前に刊行された『奇景の図像学』(角川春樹事務所、一九九六年)に収められた「噴水のある庭」という文章において、澁澤龍彥の庭園論などに触れながら、東西の噴水のありようについてすでに興味深い記述を残しているが、その「追記」に、イタリアを訪れて「得られた新たな知見」は「企画中の次なる仕事のなかに生かされるであろう」と書きとめている。この「次なる仕事」こそ本書にほかならないわけである。
(次ページに続く)
ALL REVIEWSをフォローする