書評
『ネイティヴ・サン: アメリカの息子』(新潮社)
黒人文学の金字塔、削除復元し新訳
「ブルルルルルルリイイイイイイイイイン!」
一九四〇年に発表され、黒人文学の金字塔と讃えられてきた、リチャード・ライトの代表作『ネイティヴ・サン』は、こんな目覚まし時計の音で始まる。闇を切り裂くその音は、まどろんだような日常生活を送るわたしたち読者を、激しく揺り動かすだけの力を持っている。
ここで最初に告白しておくと、『ネイティヴ・サン』はわたしが十八歳のときに、初めて英語の原書で読み通した小説である。五十年以上も前のあの夏、わたしはそのペーパーバック版をどこへ行くときにでも持っていって読んだ。高校生の頃は英語がむしろ苦手な科目だったのに、最後まで読み通せたのは、この小説には有無を言わせず読者を拉致していく、荒々しい力があったからだ。その力は読者の人生コースを変えてしまうかもしれないくらいに強烈で、わたしがいまこうしてこの書評を書いているのもそのせいである。
原始的と言ってもいいほどの荒々しい力の根源は、ひとえにこの小説の主人公である、シカゴに住む黒人青年のビッガー・トマスにある。目覚まし時計の音によって、一間の部屋に一家四人が暮らすアパートで目覚め、部屋の中を走りまわる黒いネズミをフライパンで叩きつぶすビッガー。街中で見上げた空に宣伝用の飛行機が飛んでいるのを見て、白人は空も飛べるのを知り、「地獄に落ちやがれ」とつぶやくビッガー。お抱え運転手として勤めることになった裕福な白人の家で、酔いつぶれたお嬢さんを寝室まで運んだときに、その母親がやってきて、見つかりはしないかと恐怖に怯えるビッガー。そのお嬢さんを窒息死させてしまい、死体を遺棄した後に、今度は恋人のベッシーを自らの手で殺してしまうビッガー。雪で覆われた白い世界の中で、「白い顔の群れ」に取り囲まれ、屋上伝いに逃げようとする黒いネズミのようなビッガー。そうしたイメージのそれぞれが、読者の脳裏に焼き付けられるはずだ。
本書はかつて、早川書房の「黒人文学全集」というシリーズの中で、『アメリカの息子』というタイトルで出ていた。今回の新訳『ネイティヴ・サン』は、リチャード・ライトが出版社の意向に応じて削除せざるをえなかった、生々しい個所を復元したオリジナル版を底本にしており、その意味でも意義のある復刊になっている。
リチャード・ライトが意識していたのは、ストウ夫人が書いた有名な『アンクル・トムの小屋』だった。そこで描かれた黒人奴隷のトムは、卑屈で白人に対して従順な黒人という、ステレオタイプとしてのアンクル・トムのイメージを生んだ。そのステレオタイプを超える存在としてリチャード・ライトが造形したのが、「より大きな」トム、すなわちビッガー・トマスだ。
「ブルルルルルルリイイイイイイイイイン!」
近年にまたアメリカを揺るがしている黒人差別問題と、BLM運動の盛り上がり、そして削除されていた個所を復元したオリジナル版によるこの新訳という、新たな力を蓄えながら、目覚まし時計の音とともに、ビッガーがさらに「より大きな」存在として、わたしたち読者の前に立ち現れる。
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