書評
『告白』(中央公論新社)
ぼっふぉん! わたくしの頭が破裂した音だと思ってくださいまし。町田康の『告白』を読んで狂喜したオデのちっちゃな脳味噌が、さらなる細分化を遂げたと思ってくださいまし。だって、撃ち抜かれちゃったんだもん、熊太郎の猟銃で。撃ち抜かれるがよろしいよ、御前様も。
明治二十六年五月二十五日の深夜、農家の長男として生まれ育った城戸熊太郎が、博打仲間の谷弥五郎と、同地で幅を利かせていた松永傳次郎宅などに乗り込み、一家やその親族らを次々と斬殺、射殺。被害者の中には自分の妻や乳幼児も含まれていた――。「河内十人斬り」として河内音頭のスタンダードナンバーになっている事件を題材に、町田康が描こうとしているのは絶望なんではござりますまいか。人はなぜわかりあえないのか、言葉はなぜ本当のことを正確に伝える術になり得ないのか。そうしたディスコミュニケーションが生む絶望が、熊太郎を凶状持ちにさせ、ひいては同時多発テロという現実世界の悪夢にまでつながってしまうのではないか。明治時代と現代が重なりあう。そんなケミストリーの2トップボーカルみたいな物語になっているんですの。
作者は熊太郎を思弁の人として描く。思いと言葉と行動が一致している村人たちは「もうじき秋祭りやな」「そやな」という必要最小限の会話で簡単にコミュニケーションを成立させてしまう。ところが熊太郎は、そんな簡単なことができない。思考はとりとめもなく広がってしまい、それらは〈河内の百姓言葉で現すことができない〉から、熊太郎の思いはまるで伝わらない。知性ゆえに〈村人からみれば熊太郎はごく簡単な、あほでもできることができぬ大たわけ〉になってしまう不条理。自分は他の者とは違うという自意識、それと同じくらい強いコンプレックスから孤絶感を深める熊太郎は、農作業にも真面目に取り組めず、無頼の徒と化す。作者はそんな主人公に〈あかんではないか〉とツッコミを入れながら、五ページに一回は大笑いできるユーモラスな文体をもって、思考の流れを心理小説さながらにつぶさに記述していくのだ。たとえば途中、熊太郎が改心して田を耕す場面(単行本における一八二~一八五ページ)があるんだけど、その可笑しさといったら、町田康に笑いの神様が降臨したとしか思えません。笑えない人とはエンガチョ。そう堅く心に決めているわたくしなんでありますの。くほほ。
というわけで、ここに描かれた熊太郎は怠け者で欠点も多いけど、根っからの悪人じゃない。むしろ、正直者。音読したくなるほど唇に心地よい河内弁を基調にした文体で出来上がっている熊太郎は、少なくともこの作品の読者にとっては愛すべき人物として共感の対象になるはずなんです。だからこそ後半、彼が窮地に追い込まれ、あの夜へと刻一刻近づいていく時、それまでの笑いは一転凍りつき、胸苦しさを覚えずにはいられなくなる。結婚式を終えたばかりの新郎新婦が村人を惨殺していく様を淡々と記述したソローキンの傑作『ロマン』(国書刊行会)最後の百ページに迫る虚無を湛えた五七九ページからの展開に、怒りを覚えずにいられなくなる。オデの可愛い熊太郎を追いつめたのは、誰なんだよおっ! 世間に向かって吠えずにおられないんですの。
熊太郎には、明治期に西洋から入ってきた近代的自我という概念に翻弄された日本人が投影されているという読み方も可能でありましょう。凶行に走るその姿を、アメリカという大国に伝える言葉を持たないまま自爆テロに走るアラブ人と重ねることもまた可能でありましょう。熊太郎はいかようにも読み替え可能なイコン、神話的人物なのです。この傑作を読まずして何を読む気か、御前様。あかんではないかっ。
【この書評が収録されている書籍】
明治二十六年五月二十五日の深夜、農家の長男として生まれ育った城戸熊太郎が、博打仲間の谷弥五郎と、同地で幅を利かせていた松永傳次郎宅などに乗り込み、一家やその親族らを次々と斬殺、射殺。被害者の中には自分の妻や乳幼児も含まれていた――。「河内十人斬り」として河内音頭のスタンダードナンバーになっている事件を題材に、町田康が描こうとしているのは絶望なんではござりますまいか。人はなぜわかりあえないのか、言葉はなぜ本当のことを正確に伝える術になり得ないのか。そうしたディスコミュニケーションが生む絶望が、熊太郎を凶状持ちにさせ、ひいては同時多発テロという現実世界の悪夢にまでつながってしまうのではないか。明治時代と現代が重なりあう。そんなケミストリーの2トップボーカルみたいな物語になっているんですの。
作者は熊太郎を思弁の人として描く。思いと言葉と行動が一致している村人たちは「もうじき秋祭りやな」「そやな」という必要最小限の会話で簡単にコミュニケーションを成立させてしまう。ところが熊太郎は、そんな簡単なことができない。思考はとりとめもなく広がってしまい、それらは〈河内の百姓言葉で現すことができない〉から、熊太郎の思いはまるで伝わらない。知性ゆえに〈村人からみれば熊太郎はごく簡単な、あほでもできることができぬ大たわけ〉になってしまう不条理。自分は他の者とは違うという自意識、それと同じくらい強いコンプレックスから孤絶感を深める熊太郎は、農作業にも真面目に取り組めず、無頼の徒と化す。作者はそんな主人公に〈あかんではないか〉とツッコミを入れながら、五ページに一回は大笑いできるユーモラスな文体をもって、思考の流れを心理小説さながらにつぶさに記述していくのだ。たとえば途中、熊太郎が改心して田を耕す場面(単行本における一八二~一八五ページ)があるんだけど、その可笑しさといったら、町田康に笑いの神様が降臨したとしか思えません。笑えない人とはエンガチョ。そう堅く心に決めているわたくしなんでありますの。くほほ。
というわけで、ここに描かれた熊太郎は怠け者で欠点も多いけど、根っからの悪人じゃない。むしろ、正直者。音読したくなるほど唇に心地よい河内弁を基調にした文体で出来上がっている熊太郎は、少なくともこの作品の読者にとっては愛すべき人物として共感の対象になるはずなんです。だからこそ後半、彼が窮地に追い込まれ、あの夜へと刻一刻近づいていく時、それまでの笑いは一転凍りつき、胸苦しさを覚えずにはいられなくなる。結婚式を終えたばかりの新郎新婦が村人を惨殺していく様を淡々と記述したソローキンの傑作『ロマン』(国書刊行会)最後の百ページに迫る虚無を湛えた五七九ページからの展開に、怒りを覚えずにいられなくなる。オデの可愛い熊太郎を追いつめたのは、誰なんだよおっ! 世間に向かって吠えずにおられないんですの。
熊太郎には、明治期に西洋から入ってきた近代的自我という概念に翻弄された日本人が投影されているという読み方も可能でありましょう。凶行に走るその姿を、アメリカという大国に伝える言葉を持たないまま自爆テロに走るアラブ人と重ねることもまた可能でありましょう。熊太郎はいかようにも読み替え可能なイコン、神話的人物なのです。この傑作を読まずして何を読む気か、御前様。あかんではないかっ。
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