足元の自然、育んできた情動
古代ローマの詩人ウェルギリウスの友人は、恋の深傷を癒すべく牧歌の鳴り響くアルカディアの草原に横たわっていた。詩人の心のなかでは、アルカディアは樹木や草花に満ちた理想郷なのだ。古来、緑あふれる草原には人間の心を和ませる魅力があった。とりわけ、幼少期の体験は人々に親しみのある環境を思いおこさせる。遊びたわむれていた牧草地や小川のほとりがあり、草に酔ってしまいそうな記憶が残る。「草の場」は始原の場であると言えるのだ。
やがて子どもと草の世界が分離されるという出来事は、感情の歴史を転換し、郷愁の構図を錯乱させる。始原の体験の濃淡から、世代間の隔絶が生まれ、深まることにもなる。農業生活が縮小され、牧草地での感覚が忘れ去られる。18世紀以来、一方で手入れされた草地が称賛され、他方で雑草が賛美されるという対立関係が目につくようになる。副題に「感情と自然の文化史」とあるのは、まさしく「草の歴史」を人類史のなかで語ろうとする試みである。
人々は、牧場や草原で憩いながら、見たり触れたり嗅いだりする感覚の快楽にめざめ、その残り香は文学や美術のなかに隠れている。そもそも、G・エリオットが示唆するように、幼年期の芝草を目にした喜びは「萎えた精神のぼんやりした知覚にすぎないのだろう」が、「これらはわたしたちのなかに生きつづけ、知覚を優しさに変えている」のだ。
それとともに、草や草原のなかで棲息するコオロギのような昆虫やトカゲのような小動物の姿が思いおこされ、それらと人間との交流のなかで、「草の波」は避難場所になるのだった。そのような心地よい場所は郷愁を呼び起こし、田園詩の熱狂のなかで、自然は矯正すべきではなく、とりわけ植物には自由を残してあげたいと願う。
このような幸福な記憶の半面では、牧草地は草刈りや収穫の時があり、苛酷な労働の場であった。だが、「干し草を乾燥させるというのは世界でもっとも素敵なことです」という歓びもあるらしい。
また、花壇や芝を持っていることは、社会的地位を誇示するものであり、イギリスの草の輸出は、帝国主義による地理上の暴力行為でもあった。さらにまた、草地は文学と結びつきを深めるなかで、女性の存在をきわだたせ、女性が素足で草を踏む姿は、エロティシズムの源泉として謡われてきたという。さらに、ペトラルカ、ユゴー、ゾラらの作品を介して、いかにして草が性欲や快楽を誘い出すのかが解き明かされる。
最後に、草が枯れ散るように、人間も世を去る。草は人間の推移の象徴であると詩人たちはくりかえす。墓地や廃墟を覆う草は、死者の草であり、生と文明の終焉を暗示しているかのようである。
かくして、郷愁から生まれる草への欲求には深さがあり、そこに草をめぐる人間の情動の歴史が浮かびあがる。
ほぼ半世紀前に、初めて競馬場を訪れた評者は、新緑のまぶしい広々とした空間と芝生を疾駆するサラブレッドの躍動感にすこぶる感動した。その新緑の美しい情景が今でも競馬ファンとしての心情を支えていると思っている。それだけでも、心性史研究の大家による本書を紹介できたことは冥利に尽きる。