自分が消えたのちにも残る普遍性
小説を書く前に、小説とはなにか、小説を書くとはどういうことかを根本的につきつめ、真の出発に向けた内的な準備を徹底したのが辻邦生だった。抽象的な理論でも作法の指南でもないその成果である『小説への序章 神々の死の後に』が発表されたのは、一九六八年。すでにいくつかの短篇や『廻廊(かいろう)にて』『夏の砦(とりで)』などの長篇が書かれたあとのことだが、初出の論考は六〇年代初頭から重ねられていた。いまどこを見わたしても、そのようにある種倒錯的な順序を経て小説家を目指したものはいない。
本書は、二〇〇〇年に刊行された創作学校での講演録『言葉の箱 小説を書くということ』に関連する講演を補足したあらたな構成のもと、辻邦生がかつて示した思考の精髄を、話し言葉をつうじてやわらかく解きほぐし、自身の経験をそこに加えたもので、これ以上ない自己解説であると同時に、後発者にとって貴重な導きの糸になっている。
若い日にギリシャのパルテノンの神殿を仰ぎ見て得た、芸術の目的は、日常の混沌(こんとん)を乗り越えて、ひとつの秩序を作りあげることにあるという啓示を、辻邦生は繰り返し語ってきた。のち、パリのポン・デ・ザール(芸術橋)に立っているとき、これに匹敵する生の道理を彼は理解したという。
世界には、すべて「ぼくの」という所有形容詞が付される。目の前にひろがっているのは、客観的でだれにとってもおなじ世界ではなく、自分にしか見られない、自分だけが摑(つか)んでいる景色であり、「ぼくが死んでしまうと、だれもそのなかに入って知ることはできない。だから、この世界をだれかほかの人に伝えるためには、その感じ方、色彩、雰囲気を正確に書かないと、ぼくが死んでしまったら、もうこの地上から消えてしまう」。
自分が消えたのちにも残りうる、愛すべき世界を構築すること。それが小説を書く意味なのだ。どれほど退廃的な作品を書いた作家たちも、創作に向き合う精神は健康に保たれている。そうでなければよい作品は生まれないと辻邦生は言う。日々の暮らしのなかに「生命のシンボル」を見出し、それをけっして手放さないようつねに「一回こっきり」の人生を生きる覚悟が必要になるのだ。
その覚悟を前提として、作品の構築にあたっては、個々の事実にとらわれて情報の列挙にならないよう、全体を一挙に「イマージュ」として捉え、そのイマージュを言葉によって外に表出しなければならない。小説とは「言葉でつくる箱のなかに世界を入れること」なのだが、そのために必要なのは、漱石が『文學論』で展開したFactとfeelingのうちの、feelingの扱いだと辻邦生は力説する。「出来事」の全体をまず把握し、事実の伝達だけでなく、そこに感情を付随させること。それが<ぼくの世界>という、一度しか起こらない人生に普遍性を与える。
書き手も読み手も、その世界のなかで、「直接に何という動機のない喜びの感情に満たされる」。理屈と実際はかならずしも一致しない。しかし辻邦生はその誤差をも生の喜びのなかで処理できる強さを持っていた。生誕一〇〇年の今年、膨大な作品群を、あたらしい眼で読み返しておきたい。