信長の「長」を尻に 「奈良借」の弟
来年のNHK大河ドラマは「豊臣兄弟!」である。豊臣秀吉・秀長兄弟の物語だ。こんな相談がきた。「秀吉はともかく弟の秀長は皆目知らない。小説ではなく、秀長について書かれたわかりやすい歴史の本はありますか?」。図が多く、わかりやすい。この一点で選ぶとすれば、本書である。戎光祥(えびすこうしょう)出版の図説の戦国武将シリーズは専門研究者の本ながら難解ではなく、全般によくできている。本書もそうで河内将芳氏が「秀吉政権を支えた天下の柱石」豊臣秀長の生涯を歴史学者の視点から簡潔かつ正確にまとめている。豊臣兄弟については、一九三九年出版の渡辺世祐(よすけ)『豊太閤の私的生活』がある。九十年近く前の本だが、魅力的な名著で、これが現在の秀長イメージに強く影響している。秀吉の補佐役で、温厚で常識的な秀長が豊臣政権を支えていたとの評価を固定したのは渡辺のこの書だ。しかし、21世紀に入り、名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集』が出た。秀吉が発給した書状類など一次史料は七千点ほどあるが、これが活字化されて一つにまとめられた。同様の作業は織田信長、徳川家康については既に行われていたが、豊臣秀吉は近年までなされていなかった。豊臣家について基礎資料の整理がなされると、秀長研究も進んだ。最近の研究成果は柴裕之編著『豊臣秀長』という論文集になっており、秀長の学術的で精密な研究を知りたい方は、こちらを読むとよい。
こうした基礎研究の成果を踏まえ、秀長の生涯の全体像を知りたいならば、本書である。まず、秀長の生まれ年の諸説が説明される。そして、秀吉の弟の名前について、いつから「秀長」なのか?が語られる。一般には、あまり知られていないが、秀長の実名(じつみょう)(諱(いみな))は当初「長秀」であった。秀吉の弟は当初、織田信長の馬廻(うままわり)(親衛隊)であったが、おそらく信長の長を一文字貰(もら)った。畏れ多いので、長を兄・秀吉の秀の上に載せて、長秀と名乗ったのであろう。織田信長の家中には丹羽長秀もいる。二人の長秀がいた。このように当初は、秀吉と全く別個に、信長の家臣となっていたが、信長が近江(滋賀県)の浅井氏を滅ぼし、秀吉が長浜城主になったあたりから、秀長は秀吉の家臣団のなかに取り込まれていったようである。
そして、本書の読みどころの一つだが、秀吉と徳川家康が小牧・長久手合戦の最中、天正十三年に、秀吉の弟は長秀から秀長に改名する。秀吉の秀を上にあげ、信長の長をお尻にしいた名前にしてしまった。本書は控えめで、この理由を詳しく述べないが、おそらく秀吉一家は、この合戦のあたりから信長を以前ほどは奉戴しなくなった。天正十三年に何があったか。七月に秀吉は従一位関白になった。信長の正二位右大臣兼右近衛大将をこえて朝廷の官位で格上になった。私にはこれが関係しているように思える。
本書で特に注目すべき記述は「奈良借(ならかし)」である。秀吉・秀長の兄弟は豊臣ローンをやっていた。豊臣政権の代理金融業者の取り立ては厳しく、債務者のなかには、妻子を刺殺し、家に火をかけて切腹した人まで出た。豊臣政権の軍資金の財源といえば銀山が常識だったが、高利貸しもしていたわけである。こういう新事実もドラマ化されるのか気になった。