書評
『ジジェク、革命を語る -不可能なことを求めよ-』(青土社)
行動する哲学者の格差社会への抗議
ラカン派にしてマルクス主義者という奇妙な肩書を持つ哲学者が、現代において可能な革命について語る。90年代からゼロ年代にかけての華々しい活躍ぶりと驚くべき多産性を誇ったジジェクは、いまや行動する哲学者だ。2011年にはニューヨークの「ウォール街を占拠せよ」と名づけられたデモ現場で演説し、多くの支持を集めた。12年6月には韓国を訪問し、大規模整理解雇後に相次いで亡くなった22人の労働者を追慕するために設置された「双龍自動車犠牲者合同焼香所」を訪ねて、労働者との連帯を表明した。この韓国訪問がきっかけとなったのか、ジジェクは13年から韓国の慶熙(キョンヒ)大客員教授に任用されている。本書も釜山の教育センター「インディゴ書院」のスタッフによってなされたジジェクへのインタビューという形を取っており、最近のジジェクの思考と活動を、平易かつコンパクトに理解できる内容となっている。時に煙幕的な効果をもたらすラカン理論への言及も控えめで、ジジェク入門としても申し分ない。
論点は多岐にわたるが、基調となるのはグローバル資本主義への懐疑と格差社会への抗議である。資本主義の本質にはモラルハザードが存在する(『ポストモダンの共産主義』ちくま新書)。「トリクルダウン」理論がそうであるように、金持ちをもっと金持ちにしておくことが、真の繁栄を生み出すとされるからだ。
ならば、修正されたコミュニズムが選択されるべきなのか。そうではない。コミュニズムと資本主義の「中道」などありえない。エコロジー幻想がそうであるように、すべての調和は不完全な調和なのだ。(「中庸」を説いた)孔子は「馬鹿(ばか)の元祖」だ。中国の「文化大革命」は、現代中国における(最も成功した)資本主義に結実したではないか。だから中立的なバランスを考えるよりも、バランスそのもの、すなわちバランスの尺度を変えるべきだ、と彼は主張する。
中東情勢についてはファシズムの危惧が指摘される。なぜならベンヤミンが言ったように「あらゆるファシズムの勃興は、革命が失敗に終わったあかしである」ためだ。その実例はすでにある。中国やシンガポールで実現されているような「アジア的価値観をともなった資本主義」、すなわち全体主義的資本主義だ。それは効率が高く、活力さえある。中国が金融危機をもっとも無難に乗り切れたのは、民主主義的な手続きを踏まず、強権的な経済介入をおこなうことができたからだ。この成功を持って、資本主義と民主主義との幸福な結婚は終わりを迎えた。
いまや、すべての尺度が変わりつつある。デジタル化・ネットワーク化されたポストモダン社会においては、生産手段の変化にともない、共産主義はもはや機能しなくなる。現代のプロレタリアートの問題は、あらゆるものを手に入れながら、何も所有していないという点にある。そこでは労働者の権利よりも、失業者やホームレスのような社会的排除が問題となる。
どんな政治体制が望ましいのか。もはや単純な答えはない。だから行為せよ、とジジェクはそそのかす。「愛」と「象徴的暴力」によって、「きみは仲間だ」と呼びかける「包摂的な闘争」をせよ、と。現実主義者として、現システムにおいて不可能と思われていることをせよ、と。
還暦を過ぎていっそう研ぎ澄まされていくジジェクの舌鋒(ぜっぽう)は刺激的だ。お前が立っている足場から疑え、とのメッセージ、私もしかと受け止めた。(中山徹訳)
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