書評

『向谷地さん、幻覚妄想ってどうやって聞いたらいいんですか?』(医学書院)

  • 2025/06/08
向谷地さん、幻覚妄想ってどうやって聞いたらいいんですか? / 向谷地 生良
向谷地さん、幻覚妄想ってどうやって聞いたらいいんですか?
  • 著者:向谷地 生良
  • 出版社:医学書院
  • 装丁:単行本(296ページ)
  • 発売日:2025-02-03
  • ISBN-10:4260061534
  • ISBN-13:978-4260061537
内容紹介:
常識は後からやってくる!
精神医療の常識を溶かし、対人支援の枠組みを更新しつづける「べてるの家」の向谷地生良氏。当事者がどんな話をしても彼は「へぇー」と興味津々だ。その「へぇー」こそがアナザーワールドの扉を叩く鍵だったのだ! 大澤真幸氏の特別寄稿「〈知〉はいかにして〈真実〉の地位に就くのか?」は“良心的兵役拒否者”である向谷地氏に言語論から迫る必読論文。

俯瞰する視点が患者を解き放つ

著者の向谷地生良は、北海道浦河町に1984年に設立された「浦河べてるの家」の創立者である。べてるの家は精神障害をかかえた当事者の地域活動拠点で、「当事者研究」をはじめとするユニークな活動で知られている。2000年代初頭から刊行が始まった医学書院の「ケアをひらく」シリーズが向谷地の著作を数多く出版したことで、「べてるの家の当事者研究」は、広く知られることになった。本書の中心は、このシリーズの編集を担当した名物編集者・白石正明が向谷地の人生を徹底的に掘り下げたロングインタビューである。

前半のインタビューも興味深いのだが、実は本書には、向谷地の兄と妹が参加した対談が含まれており、この箇所がまた無類に面白い。これまであまり語られてこなかった生育歴や、中学時代の体罰事件のことが詳細に語られている。体罰の件で教師と校長が謝罪に来たおり、向谷地は兄と二人、土手の上からその光景を眺めていた。この<俯瞰する視点>がその後の向谷地のスタンスを決定づけたのではないか。向谷地家は、世間の常識で考えると苦労の連続である。一時期は、妹が鬱、弟が統合失調症、父親が認知症で母親が末期がんという状況すら経験している。しかし向谷地自身は特に追いつめられ感を抱くでもなく、淡々と乗り切ったのだという。ここでも俯瞰の視点が効いている。

実はこの対談の後半で、評者には衝撃的ともいえる事実が判明する。向谷地には名付け親で他人と会話ができない「助五郎おじさん」がいて、この人が『新宝帳』という大部の書物を出版していた。向谷地はこの本を、著者がおじと知り、手に入れていた。本書のテーマは「和解」。そして「和解」は、向谷地の最初の本(『べてるの家の本』)のサブタイトルでもあった。

本書の後半には大澤真幸による「向谷地生良論」が収録されている。その重厚な内容にも大いにインスパイアされるところがあった。とりわけ他者の支配と他者への服従を徹底して忌避する「良心的兵役拒否」のくだりは膝を打った。私なりに言葉を追加すれば、向谷地はケアにおける「パワー」の行使を、ほとんど無意識的に回避している。パワー回避と、俯瞰する視点、良い意味での他人事感が、「当事者研究」の中核にある。それは中学時代の激しい体罰(というよりは暴行)や、諍(いさか)いの絶えなかった家庭環境、そして「土手の上からの視点」と「新宝帳」をつなぐ線上で育まれた資質ではなかったか。

大澤の指摘する「<知>と<真実>の不一致」も示唆的だ。私見では、これは言語の構造が必然的にもたらす乖離(かいり)であり、この乖離ゆえに言語はケアに役に立つ。実は向谷地は天才的コピーライターでもあって、「自分自身で、共に」「安心して絶望できる人生」など無数の名言がある。そこに込められた鮮やかな逆説の構造こそが、さきほどの「乖離」の産物なのだろう。こうした逆説を余白にはらんだ、ポリフォニックな言語空間が、妄想などの「小さな真実」にとらわれた患者の心に<侵襲なき揺さぶり>をもたらすこと。かくして、心は解き放たれていくのだろう。
向谷地さん、幻覚妄想ってどうやって聞いたらいいんですか? / 向谷地 生良
向谷地さん、幻覚妄想ってどうやって聞いたらいいんですか?
  • 著者:向谷地 生良
  • 出版社:医学書院
  • 装丁:単行本(296ページ)
  • 発売日:2025-02-03
  • ISBN-10:4260061534
  • ISBN-13:978-4260061537
内容紹介:
常識は後からやってくる!
精神医療の常識を溶かし、対人支援の枠組みを更新しつづける「べてるの家」の向谷地生良氏。当事者がどんな話をしても彼は「へぇー」と興味津々だ。その「へぇー」こそがアナザーワールドの扉を叩く鍵だったのだ! 大澤真幸氏の特別寄稿「〈知〉はいかにして〈真実〉の地位に就くのか?」は“良心的兵役拒否者”である向谷地氏に言語論から迫る必読論文。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2025年5月3日

毎日新聞のニュース・情報サイト。事件や話題、経済や政治のニュース、スポーツや芸能、映画などのエンターテインメントの最新ニュースを掲載しています。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
斎藤 環の書評/解説/選評
ページトップへ