書評
『脚・ひれ・翼はなぜ進化したのか: 生き物の「動き」と「形」の40億年』(草思社)
多くの動物が左右対称なのはなぜか。人間の直立二足歩行のメリットは何か。こういった生物の動きと形に関する素朴な疑問に、現代科学は答えを出せるのか――。「答えを出せる」という進化研究者、マット・ウィルキンソンが、その根拠として挙げたのは意外にも「物理学」だった。
人間の姿はなぜ今のようになったか?
人間の起源、そして人間がこのような姿をしている理由について、聖書に見られる記述はこれだけだ。文字通り受け取れば、神はたんに自分と同じ姿をした生き物を造りたい気分だったということになる。しかしこの説明、説得力はあまりない。そもそもなぜ神が人の形をしているのか、不思議ではないか。創世記冒頭の数ページで、生き物の形質とその生活との関連性について、あいまいながらも言及されている唯一の箇所は、「鳥には羽がある」というくだりである。聖書がここまで沈黙を守るのも驚くにはあたらない。なにしろその2章先では、好奇心はあらゆる罪の元凶として断罪されているのだから。すべてを当たり前に受け入れる。そうすることがどうやら求められ、正しいこととされていたのだ。幸いにもわたしたちはそんなルールを無視するようになった。つまり、ダーウィン以降、基本原則となった進化論の世界観では、こと生命にかんしては、なにごとも当たり前に受け入れるべきではないのである。大半の生物は、環境へ適応していくうちに現在のような姿になった。何世代もかけて、自然選択によって最適な変化を少しずつ積み重ねてきたのである。
それなら、自然選択こそ生命の謎を解き明かす唯一のカギではないか、と考える人もいるだろう。確かに、それはある程度、正しい。少なくとも、生き物が環境に適応していくなかで何らかの特性を備えるようになる、というところまでは。けれども、その因果関係を示している連鎖のなかから1つの例だけを取り出して解説しても、十分な知的満足は得られないだろう。まあこのあたりが思考の限界と考えれば、大目に見てもらってもいいかもしれない。適応変化を引き起こすものとして、自然選択の力を持ち出すのは悪くはない。とはいえ、多様性を生み、自然選択のきっかけとなる遺伝子突然変異は、偶然の賜物である。さらに、突然変異のあとどうなるかについては、個体群がたまたま生息している場所の環境要因によって異なってくる。これ以上のことを解明できるのだろうか? それとも進化の歴史は、次々と現れるバカげたことの繰り返しに過ぎないのだろうか? 固有の出来事、偶然の出来事の連鎖に過ぎないのだろうか? わたしたちは、神を「偶然」に置き換えただけなのではないだろうか?
生物進化の研究は「切手収集」と同じ?
まさにその通りだという人びともいる。たとえば、原子物理学の父と称されるアーネスト・ラザフォード[イギリスの物理学者。1871-1937]はこう言った。「物理だけが科学だ。ほかはみな切手収集みたいなものだ」。スティーヴン・ジェイ・グールド[アメリカの古生物学者・進化生物学者。1942-2002]は、さすがにここまで見下したような表現は使わなかった。しかし彼は、仮に進化の過程を再現したならば、今見えている生物界とは全然違うものが目の前に現れるだろうと断言し、ラザフォードと同じ立場を表明した。グールドが暗に言いたかったのは、大きなスケールで考えると、進化とは理解不可能で無軌道な獣のようなもので、科学というサーチライトをもってしても明確に見渡すことができない、ということだった。本書は、これとは完全に別のとらえ方を提案する。というのも、わたしたち人間とほかの生き物について深く理解するための方法が、なさそうでいてじつは1つある、とわたしは信じているからだ。そう、生き物の世界には、とてつもなく多様でありながら、絶対ゆるがせにできないテーマが「1つだけある」のだ。進化が始まって以来、進化の実現性を支配してきたテーマ。それは「移動運動」である。ある場所から別の場所に移る、という一見単純な行為だ。
ひらめきを与えてくれたのは翼竜だった。動物学の研究を始めたばかりのわたしの興味を引いた動物である。この分野に進むことを決めたのは、竜(ドラゴン)や失われた世界(ロスト・ワールド)などの、いかにも子どもらしい夢が科学教育によって(ありがたいことに)打ち砕かれずにすんだおかげでもあるが、現実的な動機もあった。飛行は一筋縄ではいかないテーマだ。なにしろ人類がこれを解明したのは150年前にすぎないのだから。そこでわたしはこう考えた。翼竜が体験した自然選択は、かなり特殊なものであったに違いない、と。飛行に要求される厳しい身体的条件によって、翼竜たちの形質や行動のすべてが決められた。今の時代の例でいえば、コウモリも、鳥も、そしてまさに人間が造った飛行機も同じだ。こんなに厳しい制約のもとで実現した進化があるという事実は、古生物学者にとっては神からの恵みだろう。化石から得られる情報には限界があり、古代の動物たちの生態はもちろん直接観察できない。しかしこれらの制約を手がかりにすれば、遠い道のりではあるが、いつかは大好きな研究対象の姿を生き生きと再現することができるのではないか、と思った。
わずかな手がかりで翼竜の生態がわかる!
うれしいことに、わたしの信念は間違っていなかった。航空力学を援用すれば、ほんの少しのデータでさえも情報の宝庫になった。のちにヴァーチャル復元や風洞試験なども手がけるようになったわたしが最初に行ったのは、ある翼竜を選んでその体重や翼面積を、化石をもとに推定することだった。その翼竜はアンハングエラ[白亜紀前期に生息した翼竜]と呼ばれる迫力ある生き物だ。アンハングエラの翼は巨大だった。翼開長は約5メートル、翼の面積は約1・4平方メートルにもなる。しかし体重は驚くほど軽く、およそ10キログラムしかなかった。まず、単純な物理的法則から、安定した飛行のためには体重が揚力と釣り合っていなければならないことがわかり、おおざっぱに言えば、揚力の大きさは翼面積と対気速度[周囲の大気の流れに対する速度]に左右されることも、航空力学理論が教えてくれた。アンハングエラはその大きな翼と軽い身体のおかげで、驚くほどゆっくりとしたスピードでも、空中を飛ぶのに十分な揚力を発揮できたのだ。しかし同時に、巨大な翼は力強い羽ばたきには不向きで、速度を上げるのが難しかったことも意味している。
それだけではない。羽ばたく力を持たないアンハングエラは、重力により落下しなければスピードを出せなかったし、上昇温暖気流の助けがなければ高度を保つこともできなかった。つまり、温暖気流を生み出し続けることが可能な温かい海水をたたえた熱帯の海の崖上をねぐらにして、そこから飛び立たなければならなかったに違いない。その意味では、アンハングエラは現在のグンカンドリに似ている。両者の類似性は生息環境にとどまらない。グンカンドリは空中での盗賊行為で悪名高く、飛びながら、ほかの鳥から獲物を略奪する。このよからぬ習性が、グンカンドリの運動器官の「構造」に起因しているということは、あまり知られていない。グンカンドリは地面を蹴らなければ飛び立てないので、エサを確保するために水上に舞い降りることはできない。空中でほかの鳥たちを攻撃するという手段は、彼らの身体条件にとってまさに理に適ったやり方なのである。もしかしたら、アンハングエラとその同族たちは、白亜紀の大空をのさばるゴロツキのような存在だったのかもしれない。
生物の形を決めるのは「移動運動の物理」
以上のような情報はみな、重量と翼面積さえわかれば導き出せた。物理学の知識が少しあれば、化石骨からアンハングエラの身体機能の全容を再現し、当時の環境下での彼らの生態をかなり正確に見極めることもできた。この経験はわたしにとっての啓示となった。これ以降、世界に対する考え方ががらりと変わってしまったのだ。なぜなら、運動器官の観点からものを考えるようになっていたおかげで、適応を形成する力は何も飛行運動だけに限った話ではないということに気づいたからだ。あらゆるところに移動運動というヒントが転がっているのが目につきだした。はからずもアンハングエラのおかげで、ありふれた風景のなかに潜む生命の大いなる秘密を見つけたのだった。移動運動はじかに見てわかるから、見分けるために望遠鏡や顕微鏡を必要としない。また、じっさいにどのように動いているのかを知るのに何世代にもわたって観察する必要もない。移動運動する対象はどこにでもいる。わたしの進むべき道は決まった。絶えず動き続ける生物界の核心に迫り、その姿をあきらかにして見せる。これだ。本書はそんなわたしの探求の集大成である。
生き物の形を決めたのは「物理」だった!?
人間の姿はなぜ今のようになったか?
神はまた言われた、「われわれのかたちに、 われわれをかたどって人を造り……」。
神は自分の形に人を創造された。
――創世記 1章26-27(改訂標準訳聖書)
人間の起源、そして人間がこのような姿をしている理由について、聖書に見られる記述はこれだけだ。文字通り受け取れば、神はたんに自分と同じ姿をした生き物を造りたい気分だったということになる。しかしこの説明、説得力はあまりない。そもそもなぜ神が人の形をしているのか、不思議ではないか。創世記冒頭の数ページで、生き物の形質とその生活との関連性について、あいまいながらも言及されている唯一の箇所は、「鳥には羽がある」というくだりである。聖書がここまで沈黙を守るのも驚くにはあたらない。なにしろその2章先では、好奇心はあらゆる罪の元凶として断罪されているのだから。すべてを当たり前に受け入れる。そうすることがどうやら求められ、正しいこととされていたのだ。幸いにもわたしたちはそんなルールを無視するようになった。つまり、ダーウィン以降、基本原則となった進化論の世界観では、こと生命にかんしては、なにごとも当たり前に受け入れるべきではないのである。大半の生物は、環境へ適応していくうちに現在のような姿になった。何世代もかけて、自然選択によって最適な変化を少しずつ積み重ねてきたのである。
それなら、自然選択こそ生命の謎を解き明かす唯一のカギではないか、と考える人もいるだろう。確かに、それはある程度、正しい。少なくとも、生き物が環境に適応していくなかで何らかの特性を備えるようになる、というところまでは。けれども、その因果関係を示している連鎖のなかから1つの例だけを取り出して解説しても、十分な知的満足は得られないだろう。まあこのあたりが思考の限界と考えれば、大目に見てもらってもいいかもしれない。適応変化を引き起こすものとして、自然選択の力を持ち出すのは悪くはない。とはいえ、多様性を生み、自然選択のきっかけとなる遺伝子突然変異は、偶然の賜物である。さらに、突然変異のあとどうなるかについては、個体群がたまたま生息している場所の環境要因によって異なってくる。これ以上のことを解明できるのだろうか? それとも進化の歴史は、次々と現れるバカげたことの繰り返しに過ぎないのだろうか? 固有の出来事、偶然の出来事の連鎖に過ぎないのだろうか? わたしたちは、神を「偶然」に置き換えただけなのではないだろうか?
生物進化の研究は「切手収集」と同じ?
まさにその通りだという人びともいる。たとえば、原子物理学の父と称されるアーネスト・ラザフォード[イギリスの物理学者。1871-1937]はこう言った。「物理だけが科学だ。ほかはみな切手収集みたいなものだ」。スティーヴン・ジェイ・グールド[アメリカの古生物学者・進化生物学者。1942-2002]は、さすがにここまで見下したような表現は使わなかった。しかし彼は、仮に進化の過程を再現したならば、今見えている生物界とは全然違うものが目の前に現れるだろうと断言し、ラザフォードと同じ立場を表明した。グールドが暗に言いたかったのは、大きなスケールで考えると、進化とは理解不可能で無軌道な獣のようなもので、科学というサーチライトをもってしても明確に見渡すことができない、ということだった。本書は、これとは完全に別のとらえ方を提案する。というのも、わたしたち人間とほかの生き物について深く理解するための方法が、なさそうでいてじつは1つある、とわたしは信じているからだ。そう、生き物の世界には、とてつもなく多様でありながら、絶対ゆるがせにできないテーマが「1つだけある」のだ。進化が始まって以来、進化の実現性を支配してきたテーマ。それは「移動運動」である。ある場所から別の場所に移る、という一見単純な行為だ。ひらめきを与えてくれたのは翼竜だった。動物学の研究を始めたばかりのわたしの興味を引いた動物である。この分野に進むことを決めたのは、竜(ドラゴン)や失われた世界(ロスト・ワールド)などの、いかにも子どもらしい夢が科学教育によって(ありがたいことに)打ち砕かれずにすんだおかげでもあるが、現実的な動機もあった。飛行は一筋縄ではいかないテーマだ。なにしろ人類がこれを解明したのは150年前にすぎないのだから。そこでわたしはこう考えた。翼竜が体験した自然選択は、かなり特殊なものであったに違いない、と。飛行に要求される厳しい身体的条件によって、翼竜たちの形質や行動のすべてが決められた。今の時代の例でいえば、コウモリも、鳥も、そしてまさに人間が造った飛行機も同じだ。こんなに厳しい制約のもとで実現した進化があるという事実は、古生物学者にとっては神からの恵みだろう。化石から得られる情報には限界があり、古代の動物たちの生態はもちろん直接観察できない。しかしこれらの制約を手がかりにすれば、遠い道のりではあるが、いつかは大好きな研究対象の姿を生き生きと再現することができるのではないか、と思った。
わずかな手がかりで翼竜の生態がわかる!
うれしいことに、わたしの信念は間違っていなかった。航空力学を援用すれば、ほんの少しのデータでさえも情報の宝庫になった。のちにヴァーチャル復元や風洞試験なども手がけるようになったわたしが最初に行ったのは、ある翼竜を選んでその体重や翼面積を、化石をもとに推定することだった。その翼竜はアンハングエラ[白亜紀前期に生息した翼竜]と呼ばれる迫力ある生き物だ。アンハングエラの翼は巨大だった。翼開長は約5メートル、翼の面積は約1・4平方メートルにもなる。しかし体重は驚くほど軽く、およそ10キログラムしかなかった。まず、単純な物理的法則から、安定した飛行のためには体重が揚力と釣り合っていなければならないことがわかり、おおざっぱに言えば、揚力の大きさは翼面積と対気速度[周囲の大気の流れに対する速度]に左右されることも、航空力学理論が教えてくれた。アンハングエラはその大きな翼と軽い身体のおかげで、驚くほどゆっくりとしたスピードでも、空中を飛ぶのに十分な揚力を発揮できたのだ。しかし同時に、巨大な翼は力強い羽ばたきには不向きで、速度を上げるのが難しかったことも意味している。それだけではない。羽ばたく力を持たないアンハングエラは、重力により落下しなければスピードを出せなかったし、上昇温暖気流の助けがなければ高度を保つこともできなかった。つまり、温暖気流を生み出し続けることが可能な温かい海水をたたえた熱帯の海の崖上をねぐらにして、そこから飛び立たなければならなかったに違いない。その意味では、アンハングエラは現在のグンカンドリに似ている。両者の類似性は生息環境にとどまらない。グンカンドリは空中での盗賊行為で悪名高く、飛びながら、ほかの鳥から獲物を略奪する。このよからぬ習性が、グンカンドリの運動器官の「構造」に起因しているということは、あまり知られていない。グンカンドリは地面を蹴らなければ飛び立てないので、エサを確保するために水上に舞い降りることはできない。空中でほかの鳥たちを攻撃するという手段は、彼らの身体条件にとってまさに理に適ったやり方なのである。もしかしたら、アンハングエラとその同族たちは、白亜紀の大空をのさばるゴロツキのような存在だったのかもしれない。
生物の形を決めるのは「移動運動の物理」
以上のような情報はみな、重量と翼面積さえわかれば導き出せた。物理学の知識が少しあれば、化石骨からアンハングエラの身体機能の全容を再現し、当時の環境下での彼らの生態をかなり正確に見極めることもできた。この経験はわたしにとっての啓示となった。これ以降、世界に対する考え方ががらりと変わってしまったのだ。なぜなら、運動器官の観点からものを考えるようになっていたおかげで、適応を形成する力は何も飛行運動だけに限った話ではないということに気づいたからだ。あらゆるところに移動運動というヒントが転がっているのが目につきだした。はからずもアンハングエラのおかげで、ありふれた風景のなかに潜む生命の大いなる秘密を見つけたのだった。移動運動はじかに見てわかるから、見分けるために望遠鏡や顕微鏡を必要としない。また、じっさいにどのように動いているのかを知るのに何世代にもわたって観察する必要もない。移動運動する対象はどこにでもいる。わたしの進むべき道は決まった。絶えず動き続ける生物界の核心に迫り、その姿をあきらかにして見せる。これだ。本書はそんなわたしの探求の集大成である。ALL REVIEWSをフォローする







































