書評
『言語学大辞典 世界言語編あ−こ』(三省堂)
この快挙は文化誌としても面白い
日本語、アイヌ語、英語……と数えてゆくと、地球上に言葉はいったい何種類くらいあるんだろうか。三千という人もいれば六千と書いてある本もあるが、誰も確かな根拠をあげているわけではない。ところが少なくとも三千三百九十種はあることが明らかとなった。この数は記憶しておいた方がいい。使用地域とおおよその系統を明記した数、つまり証拠付きの数としては言語学史上最大になるからだ。こうした確認作業が進むと未確認部分の推測もつくが、その数は五千から六千におよぶという。地球の言語およそ九千のうち探検隊が出かけていって今日までに採集したのは三千三百九十というのだから、まだまだ未知の部分の方が多い。言語学的に言うと地球は大航海時代の最中にあるわけだが、この航海の主役は意外にもニッポンなのである。
このたび完結した『言語学大辞典・世界言語編』全四巻(三省堂)は、見るからにカタそうで一般紙誌の書評にほとんど取り上げられていないが、日本の学術と出版の快挙と言っていいのではあるまいか。これまで世界的には、フランスの言語学者アントゥアヌ・メイエとマルセル・コーアンが名著『世界の言語』の中で紹介した百種弱が最大で、国内的には市河三喜他編の『世界言語概説』の三十六種どまりだった。それを日本の言語学者たちが一致協力して三千三百九十まで伸ばしてしまった。
ページを開いてみよう。身近なところから〈琉球語〉の項。百二十ページが費やされ、研究史からはじまり起源、周辺語との関係、文法と語彙の特徴、方言の分布などなど余すところなく説明されているが、専門的な内容なのに実に読んで面白い。たとえば、上村幸雄による総説に、
琉球語諸方言は、本土の日本語諸方言のうちでは、音韻、文法、語彙の各面からみて、九州方言にもっとも多く類似点を見いだす。このことから、琉球語が、いつとは確定しにくいにせよ、古い時代の九州方言から分岐したものであることは確実とみてよいであろう。そして、その場合、その逆方向の分岐を想定してみる必要はない。
と、戦後の琉球語研究の蓄積を踏まえて、柳田国男の「海上の道」は言語的にはなかったとする。
日本の三言語(日本語、アイヌ語、琉球語)をはじめ国連に加盟しているような国の言葉は、すべて起源から系統、特徴まで、現在の世界の研究の成果を分かりやすくまとめており、言語学を離れてその国の地理や歴史や文化誌として読んでも面白い。
しかし、僕がページをめくりはじめて止められなくなったのは、そうした国連加盟言語ではなくて、残りの三千以上を占める草むす言語の項である。
カマス語 話し手であるカマスは、サモイェードの故地である西シベリアのタイガ地帯を南下し、イェニセイ川上流のリヤン山地に居住し……過去数百年の間に、周囲のシベリア・チュルク諸族に吸収され続けた。……一九〇〇年代初頭までは、数家族の話しことばとして存続した。その後は、消滅したと考えられていたが、一九六三年に、突然二人のカマス語を話す老女が発見された。最新の情報では、そのうち一人は、一九八〇年にまだ生存していたといわれる。
プラップ語 西太平洋、カロリン諸島のプラップ環礁において、五〇〇人弱によって話されている言語。……近隣のプルスク環礁で、二〇〇人余りによって用いられるプルスク語と、基本語彙の九一パーセントを同源語として共有する。
孤島で数百人しかしゃべらない言葉もあれば、記録だけを残してもう消えてしまった言葉もある。それらはまだいい方で、
チャト語 語彙が若干報告されており、オーストロアジア語族のモン・クメール語族、北バナル語派に属するらしいとされているが、詳細は不明である。
これまで辞典という形式の中で「らしいとされているが、詳細は不明である」なんて解説があっただろうか。僕はこれを読んで言語学者と友人になってもいいと思い直した。研究の最前線のざわめきがストレートに伝わってくる。
この辞典に収録された三千三百九十種の解説は日本人の言語学者約百五十人の手になる、というのも考えてみればたいへんなことだ。これまで基礎研究が弱いと言い続けられてきた日本の中で、いつのまにか世界の水準を大きく抜く成果が上がっていた。それも言語学という地味きわまりない領分で。
日本はアジアに位置し、百年かけて欧米を体得した。そして、ここ十数年、世界のすみずみどこへ行っても日本人がいるようになった。このことはこれまで経済活動との関係でばかり語られてきたが、そろそろ学術や文化での実りがもたらされてもいい頃である、と思っていた矢先にこの本に出合ったので、個人で買うには厚すぎるかもしれないが紹介した。図書館や研究機関の常備書だと思う。
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