書評
『下品こそ、この世の花: 映画・堕落論』(筑摩書房)
「『映画秘宝』的なるもの」をひとりで体現する、鈴木則文監督のエッセイ集
含羞の人、鈴木則文が綴る内田吐夢、加藤泰、藤純子……。
『下品こそ、この世の花―映画・堕落論』は鈴木則文監督のエッセイ集である。鈴木監督は今年5月に逝去したので、これが遺稿集ということになる(ALLREVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2014年)。もとより鈴木則文は『トラック野郎』シリーズのヒットメーカーであり、『女番長』などの東映ピンキー・バイオレンス路線のオーソリティである。『ドカベン』をはじめとするまんが映画の草分けであり、日本ポルノ映画史上に屹立する『徳川セックス禁止令 色情大名』をも世に送り出した。エロ、アクション、任侠、ウンコ、およそ鈴木則文がやらなかったことはない。「『映画秘宝』的なるもの」をもしひとりの映画監督によって体現するとするなら、それは鈴木則文になるだろう。
鈴木則文監督は含羞の人であり、決して教養をひけらかすようなことはしなかった。だが周囲の人はみな知っていたように、鈴木則文監督は日本文学をこよなく愛するたいへんな読書家だった。『明星』と同じくらい『新潮』や『文學界』を愛読していたのである。だからこそ大衆文学の美点を知り、それを映画にすることができたのだ。だがその教養は(たぶん当人は教養とも思っていなかったのだろうが)めったに表に見せようとしない。それが含羞たるゆえんである。
唯一、その片鱗を見せてくれたのが鈴木監督が折に触れて雑誌や映画パンフレットなどに書いていたエッセイである。「あんなものは手慰みで、まともに相手にするようなもんじゃないよ」と当人は韜晦しており、実際本にまとめようとしても「そんなつまらんことをするな!」と怒られてしまう。だからこれは、あまり言いたくはないのだが亡くなったからこそできた本だとも言える。世界最強の則文コレクター小川晋氏によるコレクションのおかげで、監督当人も忘れていたようなエッセイまでが集められた。
エッセイはいくつかの章に分けられている。第二章「命一コマ」には敬愛する映画人についての文章が集められている。「命一コマ・内田吐夢」では助監督としてついた巨匠内田吐夢監督の人となりが語られる。「ロジ監」内田吐夢はきわめて理詰めの作劇術をもち、だが同時に無茶な飛躍を堂々とできる人だった。「チャンバラに観念はいらんでしょう」と鈴木が言うと、「おまえな、フィルムが観念をうつさなくなったら作家は終わりだぞ」と切り返す。これだけで内田吐夢が「青年たらし」で、いかに人を惹きつけてやまない存在だったかがわかるような気がする。「テーマはその映画のあるワンシーンにある」そのワンシーンがない映画は駄目だ。監督はそのワンシーンを発見し、その映画の全テーマを注ぎこむのだ、と内田吐夢は言う。もちろん、それは鈴木則文の映画のことである。そして映画を観る我々のことでもある。観客もまた、自分にとってのワンシーンを見出さなければならないのだ。
もうひとりの師匠である加藤泰についての文章、あるいは同僚だった山下耕作に捧げる映画のメイキング「『関の弥太ッペ』の頃」は当時の東映京都撮影所の熱気が甦るかのようで、思わず胸が熱くなる。惜しいのはマキノ雅弘に関するものがないことである。まちがいなく鈴木則文監督にもっとも深い影響を与えたはずのこの偉大なる「カツドウ屋」について語ってくれていたら、どんなに豊かなエピソードが残っていただろう、と思わずにはいられない。
だが、いちばんの読みどころはそれに続く「さようなら、お竜さん」と題した章である。
鈴木則文は藤純子を東映随一の女性スターにまで押し上げた人気シリーズ『緋牡丹博徒』の生みの親である。監督作こそ1本だけだが、設定を考え、脚本を書いた。それはもちろん藤純子への思いがあり、彼女をなんとかスターにしたいと思っていたからこそである。その思いはたぶん兄妹愛のようなものなのだ、と鈴木は言う。藤純子にいちばん近かった存在が語る言葉は、ただ藤純子1人のことを越えて映画スターそのものの本質へと近づくのだ。
だが、わたしのように雑誌に雑文を書き散らすこともしない多くの人々。深夜映画でじっとスクリーンをみつめていた人々。“純子やめるな”と願う人々の胸の中に、それぞれの〈藤純子の映画〉があるのだ。上映されない、それぞれの〈藤純子の映画〉が消えることへの痛憤であり哀惜であるのだ。
それは〈鈴木則文の映画〉が消えることへの痛憤であり哀惜でもあるのだろう。
映画秘宝 2015年2月号
95年に町山智浩が創刊。娯楽映画に的を絞ったマニア向け映画雑誌。「柳下毅一郎の新刊レビュー」連載中。洋泉社より1,000円+税にて毎月21日発売。Twitter:@eigahiho。