書評
『雨の裾』(講談社)
老いの時間に渦巻く死と官能
古井由吉はこれまでも、夢と現の境、過去と現在の境を踏みこえる小説を書いてきた。その世界は、揺らぐ幻の像と確固とした質感を併せ持ち、独自の展開を見せる。『雨の裾』はいよいよ極まろうとする著者の方法と持ち味が、前人未到の境地をかいま見せる小説。老いの時間に渦巻く死と官能の色合いを、ここまでこまやかに炙り出した小説があっただろうか。冒頭の「躁がしい徒然」はタイトルも粋だが、「ある境を越すとしばらくは自分から、空足でも踏んだように前のめりに、上機嫌に年を取っていく」という一文など、著者らしい観察で、心動かされる。重いものは軽く、軽いものはむしろ持ち重りのする手触りで、著者は扱う。
老いと病、入院などで時間の感覚の変わる感じが、繰り返し描かれる。「我に返るとは、我身の内の死者の時間に、さかのぼって感じる境のことか。これからも幾度となく我に返って覚めた心地がしてはまた紛れて、年を取っていくのだろうと思った」
我とは誰か、どこにいるのか。日常の輪郭がほどけて、途方に暮れて立ちつくす時間。その匂いと色合いを、描き切る著者の文章。それは、他の言葉では描かれたものが必ず別物になってしまう、という深い認識から、決して逸れることなく進む。
表題作は、死の床につく母とその息子である男を描く。男には、母が死病を得てから関係の出来た女がいる。頼まぬうちから入院先へ赴いて母の世話をする女。「人は自分の行為の、ほんとうの由来は知らない」「あなたとのことは、後悔しません」
因果と呼ぶほかない関係を、眺める眼差しの先にひろがる、死の静けさ。洗練された穏やかさの底にぞっとさせる妙味を潜める文章が、生と死を渾然一体のものとして浮かび上がらせる。読めば読むほど、どこともつかぬ気の遠くなる境へ引かれていく。
朝日新聞 2015年07月19日
朝日新聞デジタルは朝日新聞のニュースサイトです。政治、経済、社会、国際、スポーツ、カルチャー、サイエンスなどの速報ニュースに加え、教育、医療、環境、ファッション、車などの話題や写真も。2012年にアサヒ・コムからブランド名を変更しました。
ALL REVIEWSをフォローする









































