書評
『小説の設計図(メカニクス)』(青土社)
トヨザキ的評価軸:
◎「金の斧(親を質に入れても買って読め)」
「銀の斧(図書館で借りられたら読めば―)」
「鉄の斧(ブックオフで100円で売っていても読むべからず)」
が、小説の良き(しかし、時に厳しい)伴走者であるはずの批評が弱体化したと言われて久しいにもかかわらず、実は押し手としてのわたしは、少しずつ批評の輪っかが大きさと力強さを取り戻しつつあるという手応えを感じているのだ。その根拠となる存在の一人が前田塁。前田塁の批評は威勢がいい。前田塁の批評は小説への愛情に溢れている。そして何より、前田塁の批評は読んでいて楽しい。
目の前にある『小説の設計図』を開いてみるべし。すると批評家は序章で、学校教科書の定番であり、〈少年少女の道徳心や感動を呼び覚ましてきた、ことになっている〉太宰治の『走れメロス』(新潮文庫)と、この“名作”にかつて感銘を受けた読者に対し、的確かつ絶妙なツッコミを入れ、実に巧みに哄笑へと導くのである。口元に笑いを貼りつかせたわたしは、第一章で川上弘美『センセイの鞄』(文春文庫)という、これまた大勢の読者を感動させたことになっている小説と向き合うのだけれど、ここでも批評家は精緻かつ素直な読解によって、このベストセラーの思わぬ相貌を露わにするのだ。センセイ/わたし(ツキコ)の関係がS/Mであり、この物語が〈悲恋でもなければ純愛でもなく、マゾヒストによるサディストの弑逆であり、ツキコによる「センセイ殺し」の物語なのだ〉と結論する批評の暴挙に、わたしは拍手を惜しまない。
多和田葉子の『容疑者の夜行列車』(青土社)を通して「私」とは何者なのかをいぶかしみ、書かれたものを「読む」行為を疑う。小川洋子の『博士の愛した数式』(新潮文庫)における恣意的な「嘘」を暴き、気持ちよく騙されてしまう読者の粗雑な善良さを指摘する。西原理恵子のマンガ、松浦理英子の『犬身』(朝日新聞社)、中原昌也の『点滅……』(新潮社『名もなき孤児たちの墓』に収録)。前田塁は、そのいずれもで魅力的な”誤読”を提示する。もちろん、ここでいう誤読は「誤った読み」などではない。小説を前進させる駆動力としての「面白い読み」のことだ。小説は数多の”誤読”によって更新され、遠くまで運ばれる。前田塁という輪っかを得られた作品は幸福というべきなのである。
【この書評が収録されている書籍】
◎「金の斧(親を質に入れても買って読め)」
「銀の斧(図書館で借りられたら読めば―)」
「鉄の斧(ブックオフで100円で売っていても読むべからず)」
大八車の強力な輪っかの一人、前田塁の批評は読んでいて楽しい
わたしには小説が大八車で運ばれていくというイメージがある。両輪を担うのが作家と批評家、前で引っ張るのが編集者、そして後ろで押しているのが書評家と読者。そんな大八車に乗せられて、小説はどこまでも遠くへと運ばれていく、ところが近年、両輪の大きさのちぐはぐが喧伝されるようになってしまった。大八車は両輪のどちらかが小さかったりすると、同じ場所をぐるぐる回ることになってしまう。それでは遠くまで行くことができない……。が、小説の良き(しかし、時に厳しい)伴走者であるはずの批評が弱体化したと言われて久しいにもかかわらず、実は押し手としてのわたしは、少しずつ批評の輪っかが大きさと力強さを取り戻しつつあるという手応えを感じているのだ。その根拠となる存在の一人が前田塁。前田塁の批評は威勢がいい。前田塁の批評は小説への愛情に溢れている。そして何より、前田塁の批評は読んでいて楽しい。
目の前にある『小説の設計図』を開いてみるべし。すると批評家は序章で、学校教科書の定番であり、〈少年少女の道徳心や感動を呼び覚ましてきた、ことになっている〉太宰治の『走れメロス』(新潮文庫)と、この“名作”にかつて感銘を受けた読者に対し、的確かつ絶妙なツッコミを入れ、実に巧みに哄笑へと導くのである。口元に笑いを貼りつかせたわたしは、第一章で川上弘美『センセイの鞄』(文春文庫)という、これまた大勢の読者を感動させたことになっている小説と向き合うのだけれど、ここでも批評家は精緻かつ素直な読解によって、このベストセラーの思わぬ相貌を露わにするのだ。センセイ/わたし(ツキコ)の関係がS/Mであり、この物語が〈悲恋でもなければ純愛でもなく、マゾヒストによるサディストの弑逆であり、ツキコによる「センセイ殺し」の物語なのだ〉と結論する批評の暴挙に、わたしは拍手を惜しまない。
多和田葉子の『容疑者の夜行列車』(青土社)を通して「私」とは何者なのかをいぶかしみ、書かれたものを「読む」行為を疑う。小川洋子の『博士の愛した数式』(新潮文庫)における恣意的な「嘘」を暴き、気持ちよく騙されてしまう読者の粗雑な善良さを指摘する。西原理恵子のマンガ、松浦理英子の『犬身』(朝日新聞社)、中原昌也の『点滅……』(新潮社『名もなき孤児たちの墓』に収録)。前田塁は、そのいずれもで魅力的な”誤読”を提示する。もちろん、ここでいう誤読は「誤った読み」などではない。小説を前進させる駆動力としての「面白い読み」のことだ。小説は数多の”誤読”によって更新され、遠くまで運ばれる。前田塁という輪っかを得られた作品は幸福というべきなのである。
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