書評
『愛欲の精神史1 性愛のインド』(角川学芸出版)
途轍もなくスケールが大きい。インドから説き起こし、ヨーロッパや中国にまで話を広げ、最終的には日本に帰着する。仏教の経典や西洋の思想書を博引苦証しながら、日本の古典から現代の小説にいたるまで縦横無尽に語る。
「愛欲」を扱っているわりには、性欲の事象にあまり興味が示されていない。欲望の表徴ないし変奏を決定する精神性とは何か。その一点に絞って、執拗なまでに本質を掘り下げる。
日本のことを考えるとき、いつもインドのことを考えている、と公言するほどインドに心酔している。それだけに、インドの哲学と宗教について語るときも、つねに特別な感情がこめられている。もともとインドの宗教は複雑で奇妙きわまりない。少なくともはた目にはそう見える。神秘の霧を取り払うためには、いくつもの小道具が用意されている。ときには近距離で眺め、ときには浩瀚な知識を駆使する。あるいは、自らの体験をまじえて興味深いエピソードを披露したりする。
哲学をたんに頭の中だけで考えるのではなく、現地に赴きその哲学が生まれる土地を歩き回り、そこの空気と水に触れる。異域に旅をすることは、文化の「落差」を歩くことだ。その「落差」を身体で理解するまでひたすら歩き続ける。
西欧思想がインドという精神岸壁にぶつかったとき、どのようなしぶきをあげたのか。その辺りの叙述は論考を超越して、物語のような展開を見せる。マックス・ウェーバーのインド論は、この高名な学者の性愛の遍歴と結びつけて語られていて面白い。インドに向ける眼差しは、驚異的な他者批評を生み出すと同時に、西洋世界の内面的な心象をもさらけ出す。一方、ウェーバーを中間点に置くと、インド宗教とガンディーとのあいだの連続性/非連続性も浮かび上がってきた。
政治闘争の非暴力方式は身体的な禁欲を代償としてはじめて完全なものになる。そう考えたガンディーは三十七歳にして妻と性的な関係を断ちきることを一方的に決めて、内外に宣言した。四人の子どもたちとの親子関係も棚上げしようとする。ガンディーの禁欲はいったい何を意味しているのか。これまで誰も気付かなかった視点から問い直されている。
かりに禁欲が「男であることの無意味」を生きることを意味しているならば、その系譜の中で空海は日本思想史を読み解く鍵となる。
自らの感性と体験に即して宗教思想を理解しようとする姿勢は、空海の密教を解き明かす過程でも貫かれている、ルーブル美術館を訪ねた際、著者はおびただしい裸体の彫刻を目にした。そのとき受けた衝撃は、密教に出会った空海の内面を探究するのに役に立った。
空海密教という試薬を加えると、王朝文学の定性分析は自ずと結果が出る。ヒンドゥー教に由来し、密教になだれ込んだエロチシズムがどのように『源氏物語』の「色好み」と接続しているか、著者一流の語り口で巧みに読み解かれている。
女性の愛欲とその行く末について考察するのも忘れていない。圧巻は『とはずがたり』と宗教思想の響き合いについての分析である。性愛の過剰はいつの間にか女人出家へと変わり、最後には鎮魂と懺悔の交響となる。「女であることの無意味」を生きることを示唆して、壮大な知の探究の旅がここでようやく終わりを告げる。単なる愛欲の歴史にとどまらず、茫漠たる時空を超えた文明論であり、深遠な比較思想論にもなっている。
【この書評が収録されている書籍】
「愛欲」を扱っているわりには、性欲の事象にあまり興味が示されていない。欲望の表徴ないし変奏を決定する精神性とは何か。その一点に絞って、執拗なまでに本質を掘り下げる。
日本のことを考えるとき、いつもインドのことを考えている、と公言するほどインドに心酔している。それだけに、インドの哲学と宗教について語るときも、つねに特別な感情がこめられている。もともとインドの宗教は複雑で奇妙きわまりない。少なくともはた目にはそう見える。神秘の霧を取り払うためには、いくつもの小道具が用意されている。ときには近距離で眺め、ときには浩瀚な知識を駆使する。あるいは、自らの体験をまじえて興味深いエピソードを披露したりする。
哲学をたんに頭の中だけで考えるのではなく、現地に赴きその哲学が生まれる土地を歩き回り、そこの空気と水に触れる。異域に旅をすることは、文化の「落差」を歩くことだ。その「落差」を身体で理解するまでひたすら歩き続ける。
西欧思想がインドという精神岸壁にぶつかったとき、どのようなしぶきをあげたのか。その辺りの叙述は論考を超越して、物語のような展開を見せる。マックス・ウェーバーのインド論は、この高名な学者の性愛の遍歴と結びつけて語られていて面白い。インドに向ける眼差しは、驚異的な他者批評を生み出すと同時に、西洋世界の内面的な心象をもさらけ出す。一方、ウェーバーを中間点に置くと、インド宗教とガンディーとのあいだの連続性/非連続性も浮かび上がってきた。
政治闘争の非暴力方式は身体的な禁欲を代償としてはじめて完全なものになる。そう考えたガンディーは三十七歳にして妻と性的な関係を断ちきることを一方的に決めて、内外に宣言した。四人の子どもたちとの親子関係も棚上げしようとする。ガンディーの禁欲はいったい何を意味しているのか。これまで誰も気付かなかった視点から問い直されている。
かりに禁欲が「男であることの無意味」を生きることを意味しているならば、その系譜の中で空海は日本思想史を読み解く鍵となる。
自らの感性と体験に即して宗教思想を理解しようとする姿勢は、空海の密教を解き明かす過程でも貫かれている、ルーブル美術館を訪ねた際、著者はおびただしい裸体の彫刻を目にした。そのとき受けた衝撃は、密教に出会った空海の内面を探究するのに役に立った。
空海密教という試薬を加えると、王朝文学の定性分析は自ずと結果が出る。ヒンドゥー教に由来し、密教になだれ込んだエロチシズムがどのように『源氏物語』の「色好み」と接続しているか、著者一流の語り口で巧みに読み解かれている。
女性の愛欲とその行く末について考察するのも忘れていない。圧巻は『とはずがたり』と宗教思想の響き合いについての分析である。性愛の過剰はいつの間にか女人出家へと変わり、最後には鎮魂と懺悔の交響となる。「女であることの無意味」を生きることを示唆して、壮大な知の探究の旅がここでようやく終わりを告げる。単なる愛欲の歴史にとどまらず、茫漠たる時空を超えた文明論であり、深遠な比較思想論にもなっている。
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