書評
『ヴィトゲンシュタインの甥』(音楽之友社)
奇人伝が何だ
前世紀末オーストリア=ハンガリー帝国に鉄鋼・武器産業を興して、またたくまに帝国きっての財を築いた一族があった。カール・ヴィトゲンシュタインを家長とするヴィトゲンシュタイン家。カールの息子のうち三人は自殺し、のこった二人のうち一人はピアニストになり、もう一人が哲学者になった。哲学者になったほうが『論理哲学論考』のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインである。その哲学者の甥にパウル・ヴィトゲンシュタインがいた。彼が何者かというと、奇人とでもいうほかない。巨額の遺産を、自動車レースとヨットとオペラと極上のスーツであっというまにすっからかんにした。ウィーン市内でタクシーをつかまえて、行き先をパリと告げたりした。スーツのあつらえ方なら、最高級の仕立て屋に二着の燕尾服を注文し、何か月も手直しに通ったあげくの果てに、燕尾服など注文したおぼえはないという。ツケはヴィトゲンシュタイン家にまわり、彼は精神病棟にぶちこまれる。おじのルートヴィヒとともに一族の除け者、それでいて天才演奏家たちをふるえあがらせた。音楽を、とりわけオペラを聞かせると、天才的な耳の持ち主だったのだ。落魄してからは運動靴をはき、買い物籠をぶらさげてウィーンの町をさまよった。
エピソードには事欠かない。それをあつめて気楽な奇人伝を書くのは容易である。しかし、それを書いたのがパウルにおとらぬ札つきの問題的人物となると、ことはそう簡単ではない。
トーマス・ベルンハルト。小説家、演劇家、作曲家。演劇作品は上演の度にスキャンダルに巻きこまれた。文学賞受賞の際にはかならず物議をかもした。げんに、文学賞関係者の俗物性を完膚なきまでにあばきたてた、ブラック・ユーモアたっぷりの場面が作中にも出てくる。
ウィーンが大好きでいてウィーンを毒づき、文化に骨がらみでいながら文化に吐き気をもよおす。タイトルにもあるように、哲学者ルートヴィヒの生きた両大戦間の黄金時代がすでに終わり、みずからの分け前はその没落と死でしかないことをわきまえたパウルとトーマスの二人組が、グロテスクな道連れとして戦後七、八〇年代を往くドタバタ道中記である。自虐他虐にあけくれる二人一組の自伝小説には、『論理哲学論考』の文体で書かれた太宰治『人間失格』といった趣がある。
【この書評が収録されている書籍】
朝日新聞 1990年7月29日
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