書評
『アルカロイド・ラヴァーズ』(新潮社)
もうずいぶん以前の話。夏祭りに供されるカレーに毒物を混入させた疑いで捕まったMという女がいて、事件後の調べによると、Mは保険金を受け取るためにたびたび角刈りの亭主Kに毒物を盛って入院させていたらしい。ある時など、ようやく退院という際にMが持ってきた弁当を食し、病床に逆戻りという経験すら持つKなのだったが、Mを裏切らせるためであろう、検事たちがその事実を告げてすら、Kはこう言い張って決して妻に不利な発言をしなかったという。
「Mはそんな女やあらへんっ!」
それなりの定価をくっつけながら、その実、二束三文の価値しか持たない恋愛小説が平積みされていて、流してしまえばそれっきり、早晩忘れ去られてしまう安い涙を垂れ流したがる人々によって消費されている光景を見るにつけ、マスミとケンジの愛を思わないではいられない。そのねじれ具合、その激しさ、その奸計(かんけい)、その昏(くら)さ、その閉塞感、そのバカバカしさ――。空疎な、しかし、口当たりのいい小洒落た文章の羅列ゆえに売れている恋愛小説のどこを探しても、マスミとケンジのそれに匹敵するほどやばい愛は見あたらない。あるのは予定調和のごとき美しい死と甘い破滅とぬるい再生の光景だけ。いつから、愛はそんな飼い慣らされたペットのような代物に成り下がったのか。その野性、その野蛮さは、どこにいってしまったのか。
答えの一端がここにある。星野智幸『アルカロイド・ラヴァーズ』の中に。
ここには、自分の部屋が燃えているという知らせに興奮し、寝たきりの夫と観葉植物のベンジャミンと共に焼き尽くされることを夢みて走り続ける咲子という女がいる。妻である咲子に日々少しずつ毒を盛られ、それを知ってか知らずか、緩慢に訪れる死を幸せそうに受け入れる陽一という男がいる。メキシコの美術館に展示されている骸骨の木の前で知り合った咲子から、陽一が死んだ後は自分を庭に植えてほしいと頼まれ、承諾する「わたし」という女がいる。ランプの花が咲き、ステンドグラスの草が火を灯す平原で、「カミガミ」と呼ばれる九人の恋人たちが、何度も生まれ直しては、幾通りもの組み合わせで愛しあい、憎みあい、殺しあう、神話的世界がある。
ブライダル雑誌のライターをしている咲子の生活と、サヨリを愛するあまり他の七人の「カミガミ」を裏切るに至った咲子が回想する、自分がサキコとして生まれ直し続けていた楽園の日々。次元と時限が異なる二つの世界が等価値で語られるこの作品は、現実と等身大の世界を舞台にした身の丈を超えることのない物語にばかり親しんでいる読者にとっては、おそらく理解するのがたやすくはない小説だろう。が、たった一度の地震や津波で揺らぎ、瓦解するという意味では、現実とやらだって非常に危うい基盤の上に成り立った脆弱な一現象にすぎないのではないだろうか。むしろ、脳内に広がる妄想じみた光景や、その妄想が外部と回路を通じた時に見せる一瞬の幻視こそが、実は危険なまでにリアルな産物になりうることを、世間で起きる数々の事件が証明してはいないだろうか。
陽一が誕生日に贈ってくれたベンジャミンを神話世界で愛したサヨリだと思い定め、他の八人の「カミガミ」同様、男女の交合や受胎によってではなく嬰児の実から生まれた植物として自分を規定している咲子=サキコが生きている世界、そこに広がるある種おぞましい愛の光景を、わたしはそれほど突飛なものとは感じない。というのも、現実世界のリアリティをハイパーの域にまで突き詰めていけば非日常へと反転することは、ラテンアメリカ文学に親しんでいる読者になら自明なのだから。そう、エロス(性愛)を突き詰めればタナトス(死)へと転化していくように。だから——。九人の「カミガミ」が互いを激しく求めあい無惨に殺しあうのも、咲子が陽一に毒を盛るのも、首まで地面に埋まって自ら骸骨の木と化すことを祈るのも、現実と神話的世界が互いを求めあい侵食しあうのも、この小説世界にあっては何ら不自然な展開ではないのである。そして、愛というものはそもそも、相手や現実を喰らい尽くすような野蛮な衝動によって生まれいづる関係性であり、使い方次第で毒にも薬にもなるアルカロイドのように危険な、生の一成分ではなかったのか。
ひさしぶりにマスミとケンジの愛を超えるやばい恋愛小説に出会ったという気がしている。
【この書評が収録されている書籍】
「Mはそんな女やあらへんっ!」
それなりの定価をくっつけながら、その実、二束三文の価値しか持たない恋愛小説が平積みされていて、流してしまえばそれっきり、早晩忘れ去られてしまう安い涙を垂れ流したがる人々によって消費されている光景を見るにつけ、マスミとケンジの愛を思わないではいられない。そのねじれ具合、その激しさ、その奸計(かんけい)、その昏(くら)さ、その閉塞感、そのバカバカしさ――。空疎な、しかし、口当たりのいい小洒落た文章の羅列ゆえに売れている恋愛小説のどこを探しても、マスミとケンジのそれに匹敵するほどやばい愛は見あたらない。あるのは予定調和のごとき美しい死と甘い破滅とぬるい再生の光景だけ。いつから、愛はそんな飼い慣らされたペットのような代物に成り下がったのか。その野性、その野蛮さは、どこにいってしまったのか。
答えの一端がここにある。星野智幸『アルカロイド・ラヴァーズ』の中に。
ここには、自分の部屋が燃えているという知らせに興奮し、寝たきりの夫と観葉植物のベンジャミンと共に焼き尽くされることを夢みて走り続ける咲子という女がいる。妻である咲子に日々少しずつ毒を盛られ、それを知ってか知らずか、緩慢に訪れる死を幸せそうに受け入れる陽一という男がいる。メキシコの美術館に展示されている骸骨の木の前で知り合った咲子から、陽一が死んだ後は自分を庭に植えてほしいと頼まれ、承諾する「わたし」という女がいる。ランプの花が咲き、ステンドグラスの草が火を灯す平原で、「カミガミ」と呼ばれる九人の恋人たちが、何度も生まれ直しては、幾通りもの組み合わせで愛しあい、憎みあい、殺しあう、神話的世界がある。
ブライダル雑誌のライターをしている咲子の生活と、サヨリを愛するあまり他の七人の「カミガミ」を裏切るに至った咲子が回想する、自分がサキコとして生まれ直し続けていた楽園の日々。次元と時限が異なる二つの世界が等価値で語られるこの作品は、現実と等身大の世界を舞台にした身の丈を超えることのない物語にばかり親しんでいる読者にとっては、おそらく理解するのがたやすくはない小説だろう。が、たった一度の地震や津波で揺らぎ、瓦解するという意味では、現実とやらだって非常に危うい基盤の上に成り立った脆弱な一現象にすぎないのではないだろうか。むしろ、脳内に広がる妄想じみた光景や、その妄想が外部と回路を通じた時に見せる一瞬の幻視こそが、実は危険なまでにリアルな産物になりうることを、世間で起きる数々の事件が証明してはいないだろうか。
陽一が誕生日に贈ってくれたベンジャミンを神話世界で愛したサヨリだと思い定め、他の八人の「カミガミ」同様、男女の交合や受胎によってではなく嬰児の実から生まれた植物として自分を規定している咲子=サキコが生きている世界、そこに広がるある種おぞましい愛の光景を、わたしはそれほど突飛なものとは感じない。というのも、現実世界のリアリティをハイパーの域にまで突き詰めていけば非日常へと反転することは、ラテンアメリカ文学に親しんでいる読者になら自明なのだから。そう、エロス(性愛)を突き詰めればタナトス(死)へと転化していくように。だから——。九人の「カミガミ」が互いを激しく求めあい無惨に殺しあうのも、咲子が陽一に毒を盛るのも、首まで地面に埋まって自ら骸骨の木と化すことを祈るのも、現実と神話的世界が互いを求めあい侵食しあうのも、この小説世界にあっては何ら不自然な展開ではないのである。そして、愛というものはそもそも、相手や現実を喰らい尽くすような野蛮な衝動によって生まれいづる関係性であり、使い方次第で毒にも薬にもなるアルカロイドのように危険な、生の一成分ではなかったのか。
ひさしぶりにマスミとケンジの愛を超えるやばい恋愛小説に出会ったという気がしている。
【この書評が収録されている書籍】