書評
『ちょっと一服、冥土の道草』(文藝春秋)
余禄の人生
深沢七郎氏は十年ほど前に心臓病で倒れ、それからの十年間を医者通いで過ごしている身だという。「とっくに冥土へ着くはずだが、まだ道草を食っている」、というのがそのことで、それがまた題名の由来でもある。その十年間に折にふれて書かれた、回想、人物論、社会批評、夢屋出版始末記や川端賞辞退の顛末記等を含むエッセイ集である。冥土へまっしぐらに駆け込むはずが、途中で「妙な暇」が出来た。そこで道ばたにすわって一服していると、あとからマリア・カラスだの、田宮二郎だのが、どんどん先へ追い越してゆく。しまいには八十歳近くの、ウエスタン帽をかぶった老人が現れて、ピストルで殺してくれと頼み込んだりする。これは、拳銃のガンではなばなしく死ぬ代わりに、病気のガンで死んでしまったジョン・ウェインなのだとか。
ことほど左様に、冥土の道草にちょっと一服している間にも、世間は相変わらずあわただしく動き、「余禄の人生」に腰をすえた「思想濃老」の隠居にも、何かと人の出入りがやかましい。それを空トボけて応対しているうちに、一見何の変哲もなげな常識の世界がみるみるうちに一場のドタバタ喜劇と化し、バーレスクの舞台でのように、まわりのものみながひとりでににぎやかに踊り出しはじめるのである。
ひょっとすると深沢氏は、かつてのミュージック・ホールで、踊り子やコメディアンの立ち回るなかに、何くわぬ顔で一人ギターを奏でていた、往年のギタリスト桃原青二を文章の上に呼び戻しているのかもしれない。いやそれよりも、自らは病床に臥して、欲望のおもむくがままに右往左往する家族たちを踊らせていた、『瘋癲老人日記』の谷崎潤一郎の悪だくみが思い起こされる。と書いているうちにも、これがそのまま、エッセイ集のどこかにインテリの世迷い言として納められてしまいそうでゾッとするような、それほど一癖も二癖もある「ちょっと一服」である。
【この書評が収録されている書籍】
朝日新聞 1983年4月25日
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