書評

『市村弘正著作集 上巻』(集英社)

  • 2025/09/12
市村弘正著作集 上巻 / 市村 弘正
市村弘正著作集 上巻
  • 著者:市村 弘正
  • 出版社:集英社
  • 装丁:単行本(432ページ)
  • 発売日:2025-03-26
  • ISBN-10:4087890198
  • ISBN-13:978-4087890198
内容紹介:
丸山眞男と藤田省三の水脈に立つ思想史家・市村弘正は、鶴見俊輔や加藤典洋をはじめ、戦後日本を代表する論者たちから高く評価されてきた。このたび、稀代の読書人でありながら寡作をもって知… もっと読む
丸山眞男と藤田省三の水脈に立つ思想史家・市村弘正は、鶴見俊輔や加藤典洋をはじめ、戦後日本を代表する論者たちから高く評価されてきた。
このたび、稀代の読書人でありながら寡作をもって知られる市村の全仕事を、上下2冊の個人著作集に収録。
上巻には単行本デビュー作『「名づけ」の精神史』をはじめ『標識としての記録』『小さなものの諸形態 精神史覚え書』の3作を収録。
また、月報「市村弘正研究ノート 上」には、石川健治、宇野邦一、佐藤健二、杉田敦、ジョン・ブリーン、細見和之、矢野久美子、龍澤武、各界を代表する豪華メンバー8名が、それぞれの熱い思いをエッセイとして寄稿。
時代の断層を鋭く見つめ、根源まで考え、石に刻むように書き残してきた市村の言葉は、自身が深く傾倒する批評家ベンヤミンさながらに、混迷の時代に向き合う読者一人一人の思考を、アクチュアルに揺さぶり続けるだろう。

全巻の構成
上巻
「名づけ」の精神史
標識としての記録
小さなものの諸形態 精神史覚え書
初出一覧(上巻)

下巻
敗北の二十世紀
読むという生き方
単著未収録論考
附録(『みすず』読書アンケート他)
著者解題
後記
初出一覧(下巻)
人名索引(上・下巻)

注意深く読む、さまざまな出合い

社会が壊れていく。5年後、10年後はどうなっているだろう。不安と絶望感が襲う。こんなときこそ、小さなものに目を向け、かすかな音に耳を澄ませよう。天下国家を論じる大文字の言葉や大きな声ではなく。市村弘正の文章を読んでいると、そういう気持ちになってくる。

市村は1945年生まれの思想史家、批評家。『市村弘正著作集』は現時点における市村のほぼ全ての文章が収められている。上下巻合わせて約1000ページ。上巻には『「名づけ」の精神史』『標識としての記録』『小さなものの諸形態 精神史覚え書』。下巻には『敗北の二十世紀』『読むという生き方』、そして単著未収録論考。その知名度や影響力に比べて、ずいぶんと寡作だったことに驚く。「怠慢の謗(そし)りを免れないが、私にとって考えるべきことを考え書くべきことを書いた結果である」という後記の言葉にグッとくる。

この2冊の本には、考え抜かれ、慎重に選ばれた言葉の数々。覚えておきたい言葉、抜き書きしておきたい言葉がたくさん詰まっている。たとえば「私たちは物に対する哀悼からはじめなければならないのではないか」。『「名づけ」の精神史』の「物への弔辞」という章の冒頭だ。まるで「いま」のために書かれたような文章。しかし、初出は1984年の雑誌だから、まだスマートフォンもソーシャルメディアも生まれていない時代に書かれた。この文章を読んで考える。ぼくはいまネットの中の言説をいちど括弧(かっこ)に入れて、物と人間との関係を見つめ直すべきではないか?

この著作集には月報「市村弘正研究ノート」がはさみこまれている。これが素晴らしい充実ぶり。市村と縁ある研究者や編集者が寄稿しているのだが、格好のガイドブックになっている。たとえば石川健治の「トランシルヴァニアに『声』をきく」。新聞の片隅にあったブダペシュト発の特派員報告から、市村が「晩年のバルトークについての脚註」(のちに加筆され、「文化崩壊の経験――晩年のバルトークについての脚註」として『小さなものの諸形態 精神史覚え書』に採録される)を書くにいたる道筋を解説してくれる。市村の文章には注意深く読まないと見過ごしてしまうことがたくさん隠れている。

今回ぼくがもっとも楽しく興味深く読んだのは、下巻に入れられた『読むという生き方』。読書論的自伝とでもいうべきか。「読んだ本の気にかかる著者に会いに行こう」と橋川文三や藤田省三を訪ねたこと、アーレントやベンヤミン、バフチンとの出会い、そして藤田省三の私的な研究会や読書会のこと。

驚いたのは次の一節だ。

小さな切断が遂行される。八〇年代の前半から新刊書を購読することをやめた。新聞の書評に目を通すこともやめた。

ひたすら「古本」の再読を続ける。出版界・読書界がニューアカ・ブームで浮かれているときに、流行の本や言説から遠く離れて「小さなもの」に目をこらし、耳を澄ませていたのだ。なんと大胆な切断! その切断はいつまで続いたのだろう。

『市村弘正著作集』を手がかりにして、ぼくは晩年の読書計画を練ろうと思う。

【下巻】
市村弘正著作集 下巻 / 市村 弘正
市村弘正著作集 下巻
  • 著者:市村 弘正
  • 出版社:集英社
  • 装丁:単行本(504ページ)
  • 発売日:2025-04-25
  • ISBN-10:4087890201
  • ISBN-13:978-4087890204
内容紹介:
歴史の断層を読む――。ベンヤミン、アーレントに応答する透徹した思考。丸山眞男、藤田省三の水脈に立つ思想史家・市村弘正の全仕事を収めた、上下2巻の個人著作集。下巻は『敗北の二十世紀… もっと読む
歴史の断層を読む――。
ベンヤミン、アーレントに応答する透徹した思考。
丸山眞男、藤田省三の水脈に立つ思想史家・市村弘正の全仕事を収めた、上下2巻の個人著作集。

下巻は『敗北の二十世紀』と『読むという生き方』の2冊を中心に構成。「単著未収録論考」章には、『藤田省三セレクション』(平凡社ライブラリー、2010年)の解説を改稿した「「異物」の精神――藤田省三論」や、日本エディタースクール創設者吉田公彦への追悼文「出版人の形姿」(未発表)他を掲載した。「附録」章には、1986~2023年の「『みすず』読書アンケート」への回答も収録。なお「著者解題」は本巻に収めた。

下巻の月報「市村弘正研究ノート 下」には、齋藤純一はじめ総勢10名の執筆者が寄稿。「同時代書評より」では、加藤典洋や鶴見俊輔らの書評を概観しながら、作品が生みだされた時代状況を展望する。

月報「市村弘正研究ノート」全目次
[上巻]
石川健治 トランシルヴァニアに「声」をきく
宇野邦一 『敗北の二十世紀』の不穏な思考
佐藤健二 「触診」の静慮の文の美しく
杉田 敦 市村さんの「読むという生き方」
ジョン・ブリーン キーンツハイムの思い出
細見和之 周回遅れの一読者の祈り
矢野久美子 「不純性」へのpleasure
龍澤 武 市村弘正と藤田省三

[下巻]
太田和徳 ただひとりの先生
熊沢敏之 夢(ユートピア)の一覧表
郡司典夫 命の恩人――市村先生〈を〉読む/市村先生〈と〉読む
齋藤純一 物との交渉
趙星銀 「都市」という関係性
林 桂吾 『敗北の二十世紀』ができるまで
保科孝夫 平凡社ライブラリー版『「名づけ」の精神史』のこと
洪貴義 救済としての読解
渡邉悟史 異物の可能性
落合勝人 『市村弘正著作集』を編集するまで
同時代書評より

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市村弘正著作集 上巻 / 市村 弘正
市村弘正著作集 上巻
  • 著者:市村 弘正
  • 出版社:集英社
  • 装丁:単行本(432ページ)
  • 発売日:2025-03-26
  • ISBN-10:4087890198
  • ISBN-13:978-4087890198
内容紹介:
丸山眞男と藤田省三の水脈に立つ思想史家・市村弘正は、鶴見俊輔や加藤典洋をはじめ、戦後日本を代表する論者たちから高く評価されてきた。このたび、稀代の読書人でありながら寡作をもって知… もっと読む
丸山眞男と藤田省三の水脈に立つ思想史家・市村弘正は、鶴見俊輔や加藤典洋をはじめ、戦後日本を代表する論者たちから高く評価されてきた。
このたび、稀代の読書人でありながら寡作をもって知られる市村の全仕事を、上下2冊の個人著作集に収録。
上巻には単行本デビュー作『「名づけ」の精神史』をはじめ『標識としての記録』『小さなものの諸形態 精神史覚え書』の3作を収録。
また、月報「市村弘正研究ノート 上」には、石川健治、宇野邦一、佐藤健二、杉田敦、ジョン・ブリーン、細見和之、矢野久美子、龍澤武、各界を代表する豪華メンバー8名が、それぞれの熱い思いをエッセイとして寄稿。
時代の断層を鋭く見つめ、根源まで考え、石に刻むように書き残してきた市村の言葉は、自身が深く傾倒する批評家ベンヤミンさながらに、混迷の時代に向き合う読者一人一人の思考を、アクチュアルに揺さぶり続けるだろう。

全巻の構成
上巻
「名づけ」の精神史
標識としての記録
小さなものの諸形態 精神史覚え書
初出一覧(上巻)

下巻
敗北の二十世紀
読むという生き方
単著未収録論考
附録(『みすず』読書アンケート他)
著者解題
後記
初出一覧(下巻)
人名索引(上・下巻)

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2025年9月6日

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