読書日記
古谷田奈月『望むのは』(新潮社)、吉田篤弘『遠くの街に犬の吠える』(筑摩書房)、古川日出男『非常出口の音楽』(河出書房新社)、温又柔『真ん中の子どもたち』(集英社)
同級生への淡い想いも、友だちに対する複雑な気持ちも、部活の悩みも──つまりティーンエイジャーの普遍的なあれこれが全部入っているのに、とてつもなく新鮮な思春期がここに在る。なったばかりの15歳という歳を〈若いと思える範囲の最高年齢〉だと認識している高1の小春の1年が描かれた、古谷田奈月『望むのは』(新潮社一五〇〇円)。
いつか見た水たまり、雨上がりの苔、満月のふち。目に映るさまざまな色を小春は絵の具で再現する。紙に塗り、水に溶かして瓶に入れ、地下室に保存している。「色占い師」である祖母の助手として、色を集めるために山へ入り、植物や土を採取したりもする。小春にとって色は、世界を把握し、解読するための手段だ。その一方で〈人は誰でも独自の色を持っているとおばあちゃんは言うが、小春には見えない〉。そう、小春は、あの人は何色、というレッテルを貼って安心するために色を作っているのではない。
隣人でクラスメイトでバレエダンサーの歩くん、小春に美術部に入ることを勧める担任の八木先生、無邪気な友人の鮎ちゃん。青春小説らしいキャストをそろえながら、一方で異質なキャラクターがたくさん登場するのもこの作品の大きな特徴だ。彼らが普通に社会に存在し、かつ、異質であるということを両立させているのだ。どんなふうに異質なのか、帯にも書いてあるのでここで明かしても全然問題ないのだが、ラストに至るまで続く、おかしかったり鮮やかだったりする驚きをこれからの読者にはぜひ生(なま)のまま味わってほしいと思う。
色の次は音の小説を。吉田篤弘『遠くの街に犬の吠える』(筑摩書房一七〇〇円)は、テキストではなく音声で発表するための小説を発注された作家の「私」が、可視化できないものを見出していく物語だ。ストーリーを考える過程で、「私」は、編集者の茜さんや音響技術者の冴島君との間に、思いがけず共通の知人がいたことを知る。忘れ去られた言葉のみを網羅する辞典の編纂に、半世紀に渡って取り組んでいた白井先生だ。先生のもとで言葉の収集に従事したアルバイト学生は百人以上。年代は異なるが、3人とも先生の薫陶を受けていたのだ。
急逝した白井先生が残した千通もの恋文の謎を、幼い頃のある事故がきっかけで「かつてこの世に発された音」を感知する能力を備えたらしき冴島君が探偵役となってほどいてゆく。節度ある者同士の、秘められたロマンスの美しさを演出しているのは、在りし日の先生が彼らに伝えた言葉の奥深さがさまざまなかたちで結実し、ふたたび先生に辿りつくという円環のフォルムだ。言葉の正体は音であり、音は消えてしまうものだけれど「なかった」ことにはならない、という地点から出発した品の良いミステリーでもある。クラフト・エヴィング商會の装幀に今回もうっとりします。そして桃が食べたくなります。
で、この人の言葉は音にすると──声に出して読むと──格好良さがさらに際立つんだなあ。畳みかけたり、ふっと手綱をゆるめたりして作り上げられる文章のリズム、響き、呼吸が存分に楽しめる古川日出男『非常出口の音楽』(河出書房新社一五〇〇円)。25の掌編・短編が収められている。
ロサンゼルスに長期滞在することになった男が築地市場へ行って買ったもの、成田行きの機内で隣の隣の席に座っていた少年が持っていた卵の正体、難民ボートに乗った妊婦を含む女性たちが迎えられた場所、西瓜の栽培を指示し、かつ「その西瓜から、いったい、何が生まれるか、考えよう」という父の遺言に従う姉と弟。現実世界からの距離が1編1編違うので、次にどこに連れて行かれるか分からないのがたまらなくスリリングだ。たとえば山手線(おそらくは)に、どれだけ乗り続けられるかを競う「Y線脱落大会」のルールと戦いの模様のサンプルを提示した「ホッキョクグマを南極に帰す」と題された短編なんて、1度でも(ラッシュの時間帯の)山手線に乗り、混雑ぶりの異常さを体験したことのある人なら絶対笑ってしまうだろう。また、長年好きだったバンドのスタッフになることができたレコード会社社員が語る「ロック・4マイナス0」は、ドリームの先にあるリアルを見せてくれて胸に迫る。クールで温かいあとがきにもぐっとくる。
温かいと言えば、あったかくてやわらかいなんて素敵な名前だなあといつも思う。最後にご紹介するのは温又柔『真ん中の子どもたち』(集英社一三〇〇円)。
語り手は、台湾人の母と日本人の父を持つ19歳の天原琴子。日本で育った琴子は、高校卒業後、中国語学校に通っている。同じ学校に通う呉嘉玲は父が台湾人で母が日本人だが、琴子よりずっと中国語がうまい。その夏、上海に短期留学することになった2人は、現地の学校で、日本に帰化した「元中国人」の両親を持つ龍舜哉に出会う。日本語、中国語共に達者で、受け止め力のある舜哉に2人は次第に惹かれてゆく。
「母親が台湾人なら、なぜその程度の中国語しか話せないのか」「台湾という国など存在しない」──現地の人から投げかけ(投げつけ)られる言葉に傷つき、アイデンティティの揺らぎを否応なく感じさせられてしまう琴子と嘉玲。言語と個人の関係は自由なはず、と爽やかに力強く言う舜哉。こういう言い方をしていいのか分からないが、自らの「個」について考える、向き合わざるを得ない彼らは、ある意味ではかけがえのない豊かさを携えているのではないかと思った。人は他人によって定義されない、ということが「真ん中」という言葉に集約されている、そんな小説だ。
いつか見た水たまり、雨上がりの苔、満月のふち。目に映るさまざまな色を小春は絵の具で再現する。紙に塗り、水に溶かして瓶に入れ、地下室に保存している。「色占い師」である祖母の助手として、色を集めるために山へ入り、植物や土を採取したりもする。小春にとって色は、世界を把握し、解読するための手段だ。その一方で〈人は誰でも独自の色を持っているとおばあちゃんは言うが、小春には見えない〉。そう、小春は、あの人は何色、というレッテルを貼って安心するために色を作っているのではない。
隣人でクラスメイトでバレエダンサーの歩くん、小春に美術部に入ることを勧める担任の八木先生、無邪気な友人の鮎ちゃん。青春小説らしいキャストをそろえながら、一方で異質なキャラクターがたくさん登場するのもこの作品の大きな特徴だ。彼らが普通に社会に存在し、かつ、異質であるということを両立させているのだ。どんなふうに異質なのか、帯にも書いてあるのでここで明かしても全然問題ないのだが、ラストに至るまで続く、おかしかったり鮮やかだったりする驚きをこれからの読者にはぜひ生(なま)のまま味わってほしいと思う。
色の次は音の小説を。吉田篤弘『遠くの街に犬の吠える』(筑摩書房一七〇〇円)は、テキストではなく音声で発表するための小説を発注された作家の「私」が、可視化できないものを見出していく物語だ。ストーリーを考える過程で、「私」は、編集者の茜さんや音響技術者の冴島君との間に、思いがけず共通の知人がいたことを知る。忘れ去られた言葉のみを網羅する辞典の編纂に、半世紀に渡って取り組んでいた白井先生だ。先生のもとで言葉の収集に従事したアルバイト学生は百人以上。年代は異なるが、3人とも先生の薫陶を受けていたのだ。
急逝した白井先生が残した千通もの恋文の謎を、幼い頃のある事故がきっかけで「かつてこの世に発された音」を感知する能力を備えたらしき冴島君が探偵役となってほどいてゆく。節度ある者同士の、秘められたロマンスの美しさを演出しているのは、在りし日の先生が彼らに伝えた言葉の奥深さがさまざまなかたちで結実し、ふたたび先生に辿りつくという円環のフォルムだ。言葉の正体は音であり、音は消えてしまうものだけれど「なかった」ことにはならない、という地点から出発した品の良いミステリーでもある。クラフト・エヴィング商會の装幀に今回もうっとりします。そして桃が食べたくなります。
で、この人の言葉は音にすると──声に出して読むと──格好良さがさらに際立つんだなあ。畳みかけたり、ふっと手綱をゆるめたりして作り上げられる文章のリズム、響き、呼吸が存分に楽しめる古川日出男『非常出口の音楽』(河出書房新社一五〇〇円)。25の掌編・短編が収められている。
ロサンゼルスに長期滞在することになった男が築地市場へ行って買ったもの、成田行きの機内で隣の隣の席に座っていた少年が持っていた卵の正体、難民ボートに乗った妊婦を含む女性たちが迎えられた場所、西瓜の栽培を指示し、かつ「その西瓜から、いったい、何が生まれるか、考えよう」という父の遺言に従う姉と弟。現実世界からの距離が1編1編違うので、次にどこに連れて行かれるか分からないのがたまらなくスリリングだ。たとえば山手線(おそらくは)に、どれだけ乗り続けられるかを競う「Y線脱落大会」のルールと戦いの模様のサンプルを提示した「ホッキョクグマを南極に帰す」と題された短編なんて、1度でも(ラッシュの時間帯の)山手線に乗り、混雑ぶりの異常さを体験したことのある人なら絶対笑ってしまうだろう。また、長年好きだったバンドのスタッフになることができたレコード会社社員が語る「ロック・4マイナス0」は、ドリームの先にあるリアルを見せてくれて胸に迫る。クールで温かいあとがきにもぐっとくる。
温かいと言えば、あったかくてやわらかいなんて素敵な名前だなあといつも思う。最後にご紹介するのは温又柔『真ん中の子どもたち』(集英社一三〇〇円)。
語り手は、台湾人の母と日本人の父を持つ19歳の天原琴子。日本で育った琴子は、高校卒業後、中国語学校に通っている。同じ学校に通う呉嘉玲は父が台湾人で母が日本人だが、琴子よりずっと中国語がうまい。その夏、上海に短期留学することになった2人は、現地の学校で、日本に帰化した「元中国人」の両親を持つ龍舜哉に出会う。日本語、中国語共に達者で、受け止め力のある舜哉に2人は次第に惹かれてゆく。
「母親が台湾人なら、なぜその程度の中国語しか話せないのか」「台湾という国など存在しない」──現地の人から投げかけ(投げつけ)られる言葉に傷つき、アイデンティティの揺らぎを否応なく感じさせられてしまう琴子と嘉玲。言語と個人の関係は自由なはず、と爽やかに力強く言う舜哉。こういう言い方をしていいのか分からないが、自らの「個」について考える、向き合わざるを得ない彼らは、ある意味ではかけがえのない豊かさを携えているのではないかと思った。人は他人によって定義されない、ということが「真ん中」という言葉に集約されている、そんな小説だ。
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