コラム
くぼた のぞみ『J・M・クッツェーと真実』(白水社) 、J・M・クッツェー『J・M・クッツェー 少年時代の写真』(白水社)
英語に抗いつつ英語で記す葛藤
二〇〇三年にノーベル文学賞を受賞した南アフリカ出身の作家、J・M・クッツェーに関する読み応えのある書物が二冊同時に刊行された。第一作『ダスクランズ』をはじめ、『マイケル・K』『鉄の時代』『サマータイム、青年時代、少年時代 辺境からの三つの<自伝>』『モラルの話』などを日本語に移してきた翻訳者・詩人による批評的エッセイと、そのなかでも触れられている、クッツェーが十代の頃に撮影した写真集である。クッツェーは一九四〇年、南アフリカ、ケープタウンに生まれている。その名前から察せられるように、十七世紀、欧州からやってきたオランダ系の入植者の血を引いている白人アフリカーナである。クッツェーは入植者の言語からクレオール的に発達したアフリカーンス語のほか、オランダ語とドイツ語をよくするのだが、家庭内では英語を使用していた。
こうした単一ではない言語環境が「わたしの本は英語という言語にルーツをもっていない」とする後の発言のもととなっている。実際、彼の作品には、南アフリカ英語特有の単語が滑り込んでいて、注意深く読まないとそこに込められた微妙な含意を見落としてしまう。
ところで、南アフリカを語る際には、どうしてもアパルトヘイトの歴史に触れざるを得ない。オランダ系白人アフリカーナを支持母体とする国民党が政権を掌握し、合法的な差別制度のもとで統治を始めたのは一九四八年。クッツェーは白人階級としてその恩恵を被った世代である。少年時代、カルティエ・ブレッソンに憧れていたクッツェーは、ライカのコピー機を手に入れて、撮影から現像までをこなしていた。二〇一四年に発見された写真には、自伝的小説の記述に呼応する興味深いショットが含まれているのだが、なかに一枚、当時の書棚を写したものがあり、少年の読書傾向が完全に高度な西洋の教養に向かおうとしているのが見て取れる。
大学で数学を学び、卒業後はロンドンのコンピュータ会社に勤めた。いったん帰国して修士号を取り、再度のロンドン暮らしを経て、一九六五年、奨学金を得て米国オースティンのテキサス大学大学院に留学、教師をしながらベケットの英語小説文体論で博士号を取得し、永住の可能性を探っていた。ところが七一年、ある事件によって帰国を余儀なくされる。予想外の路線変更が彼のなかで故国の特殊性をより鮮明に際立たせ、その後のめざましい作家活動への契機となった。
英語に抗いつつ英語で記すことの葛藤は、二〇〇二年、南アフリカを去ってオーストラリアに移住してからもつづいた。「装飾表現を極限まで削った、シンプルで静かな、鋼のように硬質な文体」と賞されるその作品が、単一言語主義の南の国で違和を感じながらどのように変化していくのかを、著者は作品に即して丁寧に解き明かしていく。
創作と並行して、「北」の文化と言語への抵抗として試みたのが、南部アフリカ、オーストラリアとその近海諸国、南アメリカの国々を結ぶ「カテドラ・クッツェー/南の文学」という、欧米を経由しない学生、文学者、研究者たちとのセミナーである。英語を媒介とする「世界文学」の空気を入れ換えるために必要な「レジスタンス」だった。
自伝三部作もまた、語りにおける抗いである。「自伝はすべてストーリーテリングであり、書くということはすべて自伝である」との認識に立てば、自己を語ることにともなう否応ない虚構化によって過去の自分とのあいだに距離が生まれ、時代や環境を俯瞰することができる。作中のクッツェーが死者になり、他の人物が彼について証言を重ねる趣向の第三部『サマータイム』は、まさに「他者による自伝」なのだ。
二〇一三年刊の『イエスの幼子時代』にはじまるイエス三部作も、その延長線上にある。父と息子の関係を描くこの連作には、二十代の息子を事故で亡くしたクッツェー自身の体験も織りこまれていて、贖罪のにおいもする。それでいて宗教や生死に関わる根源的な問いが突き付けられているのは、「他者による自伝」の作法が、記述のべたつきを取り除いているからだろう。
ところで本書の隠れた力は、「エピローグ」で語られた著者自身の生い立ちにある。北海道開拓民の第三世代。未開の地に文明をもたらしたとする彼らの物語がどんな犠牲の上に成り立っていたのかは言うまでもない。『少年時代』を読んでいるとき「これはあなたの仕事だという声が聞こえてきた」と振り返る著者の言葉が、柔軟な筆致に厳しさをもたらすのは、この一冊がクッツェーという近しい他者を通して描いた、まぎれもない自伝でもあるからではないだろうか。
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