書評
『回文堂』(新潮社)
今がわかる名著
先日。老舗の名店ではないがけっこう高級な蕎麦屋に入った。初めて入る店で、蕎麦だけではなくちょっと気のきいた酒肴やなんかもおいてあってモダンな店内には環境音楽が流れているみたいな自己実現系の洒落くさい店である。店員はみな若く、ギャルソンみたいな黒いぞろっとした給仕服を着ている。この店員を呼び止めて酒と肴と蕎麦を注文したところ、どういう訳か話がまったく通じない。向こうはこっちの言っていることが分からず、こっちは向こうの言っていることが分からない。となると時間をかけてじっくり話しあう必要があるのだけれども、どういう訳かその店員は一刻も早くその場を離れたい様子で、こっちの話をろくに聞きもしないで中腰でそわそわしていて、大丈夫かな、と心配していたらやはり注文品を間違えてきいていたということがその後、判明した。
なんでこんなことになるかというと、ひとつは、我々は平生、日本語を話していてその日本語はひとつしかないと思いこんでいるが実はそうではなく、日本語は階層や世代、生活様式によっていくつにも分かれていて、しかも人々の興味・関心、欲望の対象が細切(こまぎ)れになった昨今では日本語も細分化して、甲乙間の意志疎通が不可能になるまでにいたったのである。
さらには右(事務局注:上)の店員がそうであったように、最近の人間は見知らぬ人とじっくりした会話ができなくなった。
なんでそんなことになったのか私は知らんが、マスメディアの影響で、どんなこみ入ったことでも一行で言い表す/言い表さねばならない、と人が思い込んでいるからかも知れぬし、人がナイーブになって知らない人と話してスカタンを言い、馬鹿だと思われて傷つくのを極度に恐れているからかも知れぬが、とにかく分からなかったら分かるまで落ち着いて話をすればよいのだけれども我々はどうもそれができず、中腰でそわそわしたりくにゃくにゃしたりしている。
そんなこんなで我々は一見、共通の言葉で話しているようにみえて実はぜんぜん違う言葉で話して、結果、あちこちで、「行き違い」や「誤解」が生じて紛争になっている。私もすんでのところで蕎麦を頭からかぶり、これをドレッドにみたててボブ・マーレー&ザ・ウェイラーズの名曲「アイ・ショット・ザ・シェリフ」を歌うところだった。
政治もそうだし商売もそうだが、世の中のたいていのことは言葉がいちおうちゃんとあるということを前提に成り立っている。しかるにその言葉がほとんど通じなくなっているというのは由由しき問題で、我々は自分たちが普段、話したり書いたりしている日本語以外に別の日本語があることを知り、その道の言葉に耳をすます必要があるだろう。
かわいしのぶの『回文堂』は書名にあるとおり回文が収録されており、その道には達人も数多あるが瞠目すべきは、回文の苦しみのなかから現れる語彙の斬新である点で、ベース奏者である著者は、「デスメタルするため素手」などと音楽用語も使い、ところがそのことは回文の苦しさのなかで屈曲して、音楽の知識がない人にもその諧謔が伝わる。
また、意味を伝えるために身振り手振りとしてのイラストも添えられており、その徹底的に無意味な馬鹿馬鹿しさは、我々を言葉の塹壕から叩きだす。
しかし叩き出てどこへ行く。あたりは一面の荒野で店員は人の話を聞かないし、みな中腰でそわそわしている。蕎麦もうどんも来ない。なんて索漠と苛々が混じって達観の域にいっているのが、夏目漱石『草枕』で、でもこれは実は爆笑小説である。むずかしいもって回った言い方で芸術家・夢想家の兄ちゃんの心理をこねこね書いてある。
様々のことが伝わらず、また伝える必要もないと思うための極意が書いてあって蕎麦などどうでもよくなる。言葉が豊かだ。
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