書評
『七十五度目の長崎行き』(河出書房新社)
“目的のある旅”の香り高い余韻
吉村昭さんの小説を読んでいると、私はストーリーの隅々まで満たされた「事実」の濃度に、圧倒されるような気持ちになるのです。史実を題材とした小説の数々は、緻密(ちみつ)な取材の結果、生み出されていたのであり、事実をていねいに集めるために、吉村さんは日本の各地を訪れていらした。今まで単行本に収録されていなかった紀行エッセイを集めた本書には、取材のための旅から東京下町散歩までが、収められています。吉村さんは旅をする機会がとても多いかただったわけですが、本書を読んでいると、“旅巧者”にありがちな、自らの旅を誇るような意識が全く無いことに気付くのです。
吉村さんにとっての旅とは、普通の意味での旅とは違う行為だったのかもしれません。心にひっかかる史実があった時、そのことについて調べずにはいられないからこそ思わず行ってしまう移動、それが吉村さんにとっての「旅」だったのではないか。さらに吉村さんにとって旅をすることは、空間を移動するだけでなく、過去へと移動することでもあったのではないかと、思えてくるのです。
何か一つの目的を持って旅をした時、その目的が明確であればあるほど、観光旅行では出会うことのない人や出来事と出会うことになります。吉村さんのそんな旅の精華は小説として読者に供され、小説という清酒ができた後の、香り高い酒粕(さけかす)のようなエッセイが、本書。
最後に収められたエッセイの、一番終わりの文章は、「私は、いい旅をしたという思いで元北浜村本郷を後にした」というものです。旅のエッセイはえてして技巧が凝らされがちですが、このあまりに素直な終わり方は、かえって多くの余韻を残します。
このような終わり方ができるのは、吉村さんが旅を旅と思わず、目的にのみひたすら向かっていたからではないでしょうか。そして読者は、まるで自分も「いい旅をした」ような読後感をもって、この本を閉じるのであり、そこに残るものは、豊かな旅の香りなのです。
朝日新聞 2009年9月27日
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