書評
『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』(講談社)
出会いのチャンス
古今東西を問わず、理想の男性をひとり挙げよと言われたら、迷わず川路聖謨(かわじとしあきら)と答える。幕末に勘定奉行を勤め、日露和親条約を締結した人だ。はじめて知ったのは、高校の日本史の授業で。「としあきらとは、読めないよなあ、ふつう」と思ったのを記憶している。名だけの存在だったその人が急に、「生きた」人間として、私の前に現れたのは、吉村昭氏の小説『落日の宴』(講談社文庫)を読んだからだ。
折衝にあたっては終始、毅然とした態度を貫き、大国ロシアに対して一歩もひるむことなく、日本を守った。ベースには、人の心をとらえずにおかない誠実さと礼儀正しさがあり、外交交渉上の敵であったプチャーチンも、深い敬愛の念を抱いて、金時計を贈っている。それも、安物の銀時計しか持っていない川路の気持ちを傷つけないよう、配慮に満ちた差し出し方だった。
胸が温まるシーンだが、同時に、描き出す著者の筆致にも、やさしさを感じた。主人公をいとおしむ気持ちが、現れているようで。吉村氏の事実小説を、私は好きでよく読むが、取材に傾ける努力もさることながら、膨大な資料の中に埋もれがちなエピソードを、たんねんに拾い上げるところに、著者の人がらをみる思いがする。
川路のことに話を戻すと、私がひかれるのは、公の業績のためだけでは、むろんない。私生活は清潔そのものであったことが、吉村氏の労作により、わかる。役人は自らを律するべしとして、日々の暮らしは極めて質素だったという。そして、これは声ならず活字を大にして強調したいところだが、「妻を愛すること甚だし」かったと。あるときは、妻の前に平伏し、かくも美しい女性を妻にしているとはもったいなや、ありがたやと頭を下げ続け、用人らを息が詰まるほど笑わせた。有能なエリートであるだけでなく、女性から見れば、かわいい面も持ち合わせた男だったのだ。
読書のいいところは、彼をはじめ、それぞれに魅力的な人々に、時代の別を越えて会えることである。いかなるお見合いパーティーといえども、これほどバリエーションに富んだ出会いのチャンスを用意することは、できない。
拙著『恋もいいけど本も好き』(講談社)には、そのあたりの楽しみを書いた。現在恋愛中の人もそうでない人も、本を通し、男性を、さらには人間全般を見る眼を磨いておくことは、幸せをつかむためにも、有効ではないかと思う。
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