書評
『ことばだけでは伝わらない:コミュニケーションの文化人類学』(幻戯書房)
手に負えないほど複雑な「伝え合い」
優れた言語学者、文化人類学者だった西江雅之は二年前に亡くなった(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2017年)。これはその遺作である。「マチョ・イネの文化人類学」のタイトルで季刊誌に発表したものに、大きく加筆修正した。それでも書き足りない思いがしたのだろう。刊行をのばしたままに世を去った。ここではコミュニケーションが「伝え合い」と言い換えてある。人間同士のコミュニケーションは「ことば」によるとされているが、現実の「伝え合い」は「ことば」だけでは決して成立しない。「『伝え合い』をとらえるための『七つの要素』についての考えは、わたしが半世紀近く前から温めてきたものです」
大幅に手を加えても書き足りない思いがした理由がうかがえる。「手に負えないほど複雑な背景」に支えられた「伝え合い」の厄介さ。それとともに「半世紀近く前」、二十代の青年西江雅之の痛切な体験があってのことにちがいない。
アフリカ大陸、アラブ諸国、インド洋諸島、ヨーロッパ、南北アメリカ、太平洋諸島……。この文化人類学者は世界各地に足跡をのこした。多くの場合、さらにその国の人々ですら足を踏み入れることの少ない奥地や僻地(へきち)へと向かった。小規模の言語や文化を研究対象とした者がたどらなくてはならない道だった。
北東アフリカの国ソマリア。気がつくと土地の数人にとり巻かれていた。「角張った顔をした精悍な体つきの男たち」が、手に槍をもち、突如あらわれ、見知らぬ若者をとり囲み、口々に何かしゃべっている。「わたしには一切分からない言葉を話した」
そのあとの経過が、いかにも西江雅之である。表情や身ぶり、手ぶりで挨拶を交わしたのち、ちゃっかりと彼らの寝泊りしている小屋についていって、羊の脚肉やラクダのミルクをご馳走になった。意味深い「伝え合い」の始まりである。人間は「ことば」で伝え合っているという説を、どうしてうのみにできようか。「ことば」は「伝え合い」に必要な要素の一つにすぎず、ほかに「身体の動き」「当人の特徴」「社会的背景」「空間と時間」「その場の環境」「生理的な反応」の六つの要素を掲げて、一つ一つ検証していく。
西江雅之はつねに母国を出て旅をした。母語の外に出て旅をつづけた。いつも「ことば」の領界を越えて行った。越境者の体験をかさねるなかで学者として成熟した。境界を越え、そこに滞在して、境界の住人とともに暮らした。その間、いや応なく境界を実感させられ、数かぎりないとまどいのなかで考えた。その「伝え合い」の考察は、ねばり強い遍歴の半生にもとづいている。
「ことば」、またそれ以外の六つの要素をとりあげ、ことこまかに分析するにつれ、「伝え合い」の複雑さが判明していく。「ことば」以外の要素は、どれ一つとして独立して、それだけで現れることがない。いずれの要素も他の要素との関係でとらえなくてはならず、「同時に溶けあって」はたらいている。しかも、「伝え合い」は現場でのその場かぎりのもの。それを考察対象とすること自体がムダではないのか。
この誠実な学者は、したり顔した学問的成果を誇らなかった。メディアの異様な発展につれて、おそろしく変化したコミュニケーションの難しさを、まさにその実態で示そうとした。
実をいうと、こういう警抜な考察は、私のような、もうおおかた終わった人間ではなく、若い読者にこそふさわしい。自分の体験に照らして検証してほしいのだ。
ALL REVIEWSをフォローする









































