書評
『ジェニーの肖像』(早川書房)
少女の幻
『ジェニーの肖像』を読む気になったのは、ジャーナリスト時代のガルシア=マルケスが、トルーマン・カポーティについて書いたコラムの中で『ミリアム』とともにこの小説について触れていたからだった。幸い友人が文庫本を見つけてくれたのだが、一九三九年の作とは知らなかった。二つの作品は、主人公が非現実性を備えた現実的存在である少女という点で共通することを、ガルシア=マルケスは指摘する。興味を惹かれたのは、彼が両者について述べながら、やがて自分が書くことになる作品について語っているかに見えることだった。芸術家が他人の作品を批評すると、自らの作品論になってしまうことが往々にしてある。読んでみると、確かにジェニーはガルシア=マルケスがいうような少女だった。名もない画家の前に、過去の世界から抜け出てきた少女が現れ、彼の絵のモデルとなるのだが、なぜか会う度ごとに急激に成長している。理由はどうやら、彼女が画家の年齢にふさわしい相手になろうと、懸命に成長しているかららしい。もちろん科学的根拠はない。そこで語り手の「わたし」は言う。「分からないことでも信じてしまうことがある。これは宗教家だけでなく、科学者の方法でもあるのだ」と。いかにもガルシア=マルケスがうなずきそうな科白だ。あるいはこんな言葉、「わたしの視線は、また、現実に見えないものまで求めているのだった」とか、「夢のような感じでしかも醒めている」は、ワイエスの描くカーテンを揺する風を連想させる。「幽霊ではなかったし、夢を見ているのでもなかった。」これらにぴったりの手法をどう呼ぶかは、読者の判断に任せよう。解説によれば、「現実逃避も社会的リアリズムも、ともに芸術のために好ましくないというのが彼(ネイサン)の立場である」という。
ジェニーが溺死することの予兆や夢などは、タイタニックにまつわるミステリーを想わせ、テレビなら「トワイライト・ゾーン」になりかねない。それを文学として読めるのは、作者の描写力とともに、その芸術観が示されていることによる。表層批評批判や未来主義批判などの断片が、その目で読めばあちこちに見つかるはずである。ジェニファー・ジョーンズ主演の映画にはこれがなかった。彼女の演じる少女をどうこう言うつもりはないが、映画からは芸術論がすっぽり抜け落ちてしまう。だが、この小説が、『ロリータ』とまではいかないものの、作者の芸術論でもあることを見逃すわけにはいかない。
初出メディア

翻訳の世界 1993年3月号
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