書評
『研究不正と歪んだ科学 STAP細胞事件を超えて』(日本評論社)
日本の研究現場の問題剔出、対策探る
STAP細胞データ捏造。一般の反応としては、何となくふっきれない思いのまま、記憶の彼方に押しやられがちな事件かもしれない。しかし、かなり早い時期に出版された科学ジャーナリストの見事な報告、須田桃子著『捏造の科学者』(文藝春秋)などもあり、さらに、研究者コミュニティの間では、本来とっくの昔に決着はついていて、今さら蒸し返すのも無意味とさえ思われる状況にある。しかし、研究の現状は、あの事件をO氏の特殊事例で終わらせない。例えば、メディアの扱いはO氏の不祥事とは雲泥の差があったが、弘前大学医学部の元教授S氏に関わる大きな論文不正は、あの『サイエンス』誌が「史上最悪の不正」と断定したもので、単に論文不正に留まらず、骨粗鬆症に関する現場の治療指針をさえ揺るがす悪質なものであった。この事件も当事者の不幸を招いたが、その他にも、東邦大学元教員のF氏は、公表された論文二一二編の内、実に一七二編を撤回した、など、研究不正は花盛り。海外に設けられた「リトラクションウォッチ」(学会誌掲載論文の撤回例を監視するサイト)では、悪名が定評になったのが日本(の特に医学界)である。
本書の編著者の問題意識は、O氏事件の詳細な検証を突破口にして、こうした日本の研究者コミュニティが抱える問題の剔出(てきしゅつ)と、それへの可能な対策の探索に、矛先を据えようとする。したがって、本書の最初の部分は、O氏事件と理化学研究所の対応に対する、詳細な批判的検討に捧げられている。結局、残る問題としては、ES細胞のコンタミネーション(汚染)の最終責任が誰にあるのか、また理研責任者層の、研究経営管理上の責任の取り方が適切であったか、という結論が導かれる。ある意味では常識的な結論でもあるが、そこへの道程は、綿密で、真摯(しんし)である。
より一般化された問題も、O氏事件の論文の詳細な検討を通じて論じられる。例えば、筆頭著者と共著者たちが、どのような関係にあり、どのように結果とされるものを分担していたか、これは、責任の分担と同時に、実際の現場での状態にも検証の手が伸びる。例えばO氏が、海外で得たと称する「データ」を持ち帰って、理研の研究グループとの共同研究に利用する、というような状況は、必ずしも当該事件のみでなく、珍しくない事態だが、こうした場合に、共同研究者として留意すべきことは何か、という点にも言及される。
また、実験データの再現性(つまり追試)は、捏造へのブレーキとして常に期待されるが、生命科学の領域では、再現が困難である事例も少なくない。合理的な理由が付随する場合は許されることもあり得ることを前提に、この条件を隠れ蓑にすることは、当該事例も含めて、不可であることも力説される。
後半の部分では、O氏事件が、単に、研究上の不祥事であり、日本の研究事情に対する国際的評価の失墜にも関わっているだけではなく、STAP細胞なるものが、本来再生医療を目的としたはずであるところから、理研の研究プロジェクトの解散など、日本のこの分野における研究にも、有形・無形の障害となっていることが指摘される。
最後には、現代の日本の研究現場における、人材の養成・キャリア形成・登用の仕組みの持つ問題点などが浮き彫りにされる。複数の著者の執筆だが、本文のほかに、コラム欄が多用されて、読者にとって行き届いた構成になっている。研究者を目指す若者だけでなく、一般の読者にも読んで欲しい一冊。
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