書評
『沈黙を破る者』(河出書房新社)
厚みある人物描写と緊密なミステリー
ある男性医師が父親の遺品のなかに、知らない人間の身分証明書を見つける。女性の肖像写真も。そこから、この上質なミステリー小説は静かに始まる。写真の裏に記された写真館の名前を手掛りに、医師は軽い気持ちから(写真の女性は父親の愛人だったのかもしれないと勘繰って)調べ始める。すると殺人事件が起こる。おそらく、自分が突然、過去を掘り返そうとしたために。一方、海辺で一人静かに暮している裕福な老女テレーゼは、一本の電話をきっかけに、過去を回想し始める。
小説は、だから現在(一九九七年から一九九八年にかけて)と、過去(およそ五十年前)とを行きつ戻りつしながら進む。その場面転換が見事だ。ふくよかな余韻を残しながらも、すぱん、と思いきりよく時空を超える。テレーゼの回想が途切れると、“その続きは? 続きを知りたい”と切実に思うのだが、現在に戻ってきてすぐに思いだす。“あ、こっちもさっきいいところだったんだ”。現在にも過去にも謎があり、それがすこしずつ紐解かれていく。
過去のパートのいちばん最初にテレーゼが思いだすのは、五人の友人たちのことだ。「赤い巻き毛で、いつもげらげら笑って賑やか」なアルヴィーネ、その兄で、「思慮深く、プライドが内からにじみ出ている」ヤーコプ、「がっしりした体躯の実務家タイプで、なにかもめ事があると、かならずその場に居合わせて活躍する」ヴィルヘルム、「農場の娘で、バラ色の頬の上で輝く大きな水色の目が、いかにもきまじめそう」なハンナ、そして、「文学を愛好」し、「ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を最初から最後まで暗誦でき」るレオナルト。全員が若く、みずみずしい友情で結ばれ、複数の恋愛感情が錯綜している。それぞれに印象的な彼らに何が起り、どうなっていくのかが、物語の中心に揺るぎなくある。
この小説のすばらしさの一つは間違いなく人物描写で、テレーゼを含む仲間六人は勿論、脇役といえる登場人物たちまで一人ずつが、過去のパートでも現在のパートでも見事に血肉を備え、個として完結した厚みを持って描かれている。仮に謎解きがなくても、彼らのありようを読むだけでかなり幸福な読書体験なのだが、それが、ストーリーの緊密なミステリーになっているのだから得も言われない。なんていう贅沢。この、あまり厚くない一冊のなかに、どれだけの時間が、何人の人生が、家族が、友情が、恋愛が、嘘が、秘密が織り込まれていることだろう。
回想のパートは五十年前のドイツで、陰惨な歴史のただなかだが、登場人物たちの日々の手ざわりを、著者は陰惨さに呑み込ませない。戦下でも、「明るく澄み切った天気」が続けば人は洗濯をし、「木々や生垣は秋めいて赤や黄色に色づき、晩生種のリンゴやナシの甘い香りが、冬にそなえて鋤(す)き返したばかりの畑の土のにおいと混じりあ」うのだし、早朝の駅で友人の出征を見送るときの「空は低く垂れこめ、カキの殻の内側のよう」で、「銀色と鉄色のあいだから、バラ色とスミレ色がかすかにこぼれてい」る。こういう日々の手ざわり(あるいは世界の手ざわりの確かさ)は、現在のパートにも随所に、鮮烈かつ的確に書き込まれている。
殺人事件の犯人をはじめとするさまざまな謎のこたえも、さらなるひとひねりも、ちゃんと用意されている。回想のなかの若者たちの生気が、過去だとわかっているためになおさら、鮮烈に胸を打つ。
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