書評
『雅楽を聴く――響きの庭への誘い』(岩波書店)
現場から探る新たな芸能の可能性
この度の東日本大震災を体験して、すぐに思い起こしたのは、九世紀の貞観(じょうがん)年間に東北地方を中心に起きた地震と津波である(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2011年)。案の定、仙台平野では今回に匹敵する貞観の津波の痕跡が認められたという。本書を読むなかで、再びこの貞観の震災のことを思い起こしたが、それはほかでもない、この貞観時代に各地で新たな芸能の動きが生まれてきたからである。たとえば主要な神社で臨時祭が開かれるようになったが、それは京都の賀茂社のように神が芸能の奉仕を人々に求めてきたことによるという。新たな芸能はこのような災害や疫病・飢饉(ききん)などとともに生まれてきており、京都の祇園祭もまた貞観年間に起源がある。
本書は、その扱う雅楽を、狭い意味における宮中の雅楽ではなく、(1)広く日本固有の起源を持つ神道系の歌舞、(2)大陸伝来の異国風の舞楽、そして(3)九世紀後半以降に生まれた歌ものと、広い意味で捉えているが、臨時祭の雅楽はこのうちの(3)九世紀後半以降に生まれた歌ものにほかならない。
著者は、最初に(2)大陸伝来の異国風の舞楽を中心にして展開した宮中の舞楽のあり方を『年中行事絵巻』などを用いてわかりやすく解説する。続いて本論に入って、奈良の春日若宮おん祭り、大阪・四天王寺の聖霊会(しょうりょうえ)、そして東京の宮内庁楽部と国立劇場の四つの雅楽の空間に我が身を置いて、雅楽を体験するなかで、その特質を探っている。歴史の展開を辿(たど)るというより、「雅楽を聴く」という書名からもわかるように、現場で聴くなかで、雅楽の可能性を探ってゆくのである。
その現場の一つとして、まず奈良の春日若宮おん祭りを取り上げているが、これは臨時祭の系統を引くもので、何度か衰退の危機はあったものの、今に連綿と続いている。ただこれの起源は九世紀ではなく、十二世紀になって飢饉が起きたところから、興福寺の大衆の要望によって生まれ、やがて奈良という都市を背景にして成長していった庶民性の強い祭りである。毎年十二月の寒い深夜、若宮から神がお旅所に移されて始まる祭礼は、人と神との交歓をよく物語るものとして、著者はその感動を伝えている。
次の大阪・四天王寺の聖霊会であるが、起源でいえばこちらの方が古く、また宮中の雅楽の系統を引く。仏教を日本に広めた聖徳太子の聖霊をまつる法会として始まったものであるが、四天王寺の西門が極楽の東門と考えられたこともあって、上皇から庶民にいたるまで広く人々の信仰をいざなってきた。著者はその太子信仰を担ってきた大阪の庶民のエネルギーを感じ取っている。
さらに近代における雅楽の場として、宮内庁楽部と国立劇場をとりあげているが、この部分に著者の本領が最も発揮されている。著者には近代から現代に至る雅楽の歴史と意義を考察した本があって、その成果に基づきつつ、雅楽の演奏者である楽人たちの、江戸城紅葉山から宮内庁雅楽部へという変遷のなかでの動きを考える。そして最後に国立劇場における雅楽の現状と今後のあり方を見通している。
本書を読んで、雅楽が日本的な展開を始めた九世紀から今にかけての変遷を辿り、思ったことは、雅楽の新たな(4)二十一世紀に生まれた歌もの、が求められているということである。今度の東日本大震災はそれを促すよい契機となろう。
このことは音楽の分野だけでなく、貞観年間に食の文化も仏像もまた大きく変わってきたように、様々な文化の領域においても求められていることであろう。