身近な民俗信仰から探る伝統の意味
書名を見た時、すぐに思ったのは、賽銭(さいせん)を投ずる行為の意味を解き明かすべく、神と人との関係、銭と人との関係などから、さらに投げるという行為の意味、はたまた賽銭箱という特殊な箱のあり方などに解き及んで、副題にある「民俗信仰を読み解く」面白さを伝えようとしたのであろうということであった。しかし本書を開いてみると、民俗信仰を読み解くことが主題であって、なぜ日本人は賽銭を投げるのかというテーマは、最後の第六章でわずかに述べられているだけであり、私が思い描いたことの何分の一しか触れられていない。これは書名のつけ方に問題がある。内容が民俗信仰論としては極めて面白いだけに残念でならない。
著者は本書で生活のなかの身近な疑問から、伝統の意味を探ってゆく。このスピードの激しい現代社会にあってこそ、じっくりと物事の成り立ちを考えることが重要であると指摘しつつ、民俗信仰の様々な疑問を提出し、その考察を進めてゆく。
最初は、四季おりおりの民俗行事についてのもので、四月の桜の花見から三月の雛(ひな)祭りにいたるまで、月々の行事について疑問を提出しては、その解明に立ち向かう。
たとえば三月三日の雛祭りでは、雛人形に込められた意味を探っているが、そこでは源流として、貴族たちによって行われた三月三日の曲水の宴、貴族の幼児たちによる雛遊び、そして穢(けが)れを人形に付けて祓(はら)う習俗の三つを提出し、それらが組み合わさって、雛祭りの原型が生まれたのが室町時代であり、江戸時代には豪華な雛祭りが五節句の一つとして確立したという。そして流し雛や、雛祭りが終わったらすぐにしまわなければならないという習俗が、この穢れを祓う習俗に基づくものであることを指摘する。
第二章の「暮らしと信仰」では、日々の縁起かつぎや信仰についての素朴な疑問から発して、解明へと向かっている。玄関に貼られる魔除(よ)けのお札の意味を境界論から解明し、路傍の道祖神のあり方を近親婚のタブーから説明し、カラスに神聖性と呪術性の両義性を見出し、猿の信仰には庚申(こうしん)信仰が関わっていることを指摘する。
それぞれに示唆に富む指摘であって興味深いが、民俗信仰入門が考えられているためもあろうが、概して文章が短く、もう少し説明が欲しいような部分がたくさんあった。この点は第三章の「比叡山の水脈」についても同様である。
比叡山を開いた最澄がどうして比叡山を選んだのか、という問題に発して、いわれている平安京の鬼門に位置していたからではなく、最澄が育った故郷である琵琶湖湖畔の近江から選ばれたものであることを明らかにして、このように故郷に立ち戻って新たな社会に飛び出すことを「回帰飛翔」と名づけ、同じ「回帰飛翔」を行った空海が最澄とは違って、異郷の地である高野山を最後の修行の地に選んだことと対比している。
これも僅(わず)か八ぺージほどの文章なのでわからないことが多かったが、興味深い指摘であり山のもつ力の意味を考えさせられた。
第四章の「葬儀と墓」は、民俗学が最も得意とする分野であり、香典に始まって通夜の酒振る舞い、枕飯、湯灌(ゆかん)、焼香、遺影、祭壇、位牌など、現代の葬儀の不思議な実態がどのような伝統に基づいているのかを明らかにしている。
続いて墓や散骨などの風習に解き及んで、土葬や風葬の伝統的な民俗が急速に火葬にとってかわられていることを指摘するとともに、しかしこのように日陰に身を隠しても、「ある時代に、一定の条件が整えられれば、たちまちのうちに表舞台に立ち現われる」のが民俗のありかたであると語っているのは、極めて印象的である。
これに続く第五章では「死の神話」について、日本神話のあり方や地獄の問題について語っているが、テーマが大きいだけにここでは概説に終始している。
そして最後の第六章が書名となった「賽銭はなぜ投げるのか」である。その疑問とするところは、人に物を渡すのに投げて渡すのはたいへん失礼なことなのに、どうして神社では賽銭を投げるのかということにあった。著者は類似の事例として、厄年に厄払いとして銭を撒(ま)く習俗に注目し、厄払いとして行われているものと見て、貨幣はケガレの吸引装置であったことを指摘して、脱社会的な贈与関係をそこに見ている。
しかしこの説明だけではどうにも納得できなかった。撒くのと投げるのとでは違う行為であり、投書や投函との対比も必要であろうし、賽銭は他方で「あげる」ものでもあれば、それとの関わりも探る必要があろう。
いささか批判めいた部分が多くなってしまったが、本書には民俗学の興味深いテーマがいっぱい詰まっており、それを解明する手がかりや概念装置が簡潔に指摘している点ですぐれた書物であることは指摘しておきたい。